はじめに
ジェイン・オースティンが生きた時代は、摂政時代(リージェンシー)という時期です。彼女の6作品全てがこの時代に出版されました。
日本ではヴィクトリア朝の影に隠れてほとんど知られていませんが、欧米ではしばしば贅沢・放蕩・堕落・奔放のイメージで語られます。
では摂政時代とは具体的にどんな時代なのでしょう?
この記事では、ジョージ4世の治世を中心にご紹介します。
摂政時代っていつ?
厳密に言えば皇太子ジョージが摂政に就任していた1811年〜1820年の9年間を指しますが(Regency Period)、広義にはジョージ4世が青年であった皇太子時代の1790年代頃から、国王としての統治が終わる1830年まで(あるいはヴィクトリア朝開始の1837年まで)を摂政時代(Regency Era)と呼びます。
なんで日本では知られてないの?
・19世紀イギリス=ヴィクトリア朝という印象が強いから。
・世界史ではちょうどフランス革命やナポレオンの時代なので、イギリスは影が薄いから。イギリスはナポレオン戦争との関わりや産業革命の発展が言及されるのみで、文化芸術面に関してはほとんど無視されている。
・治世が短い上に、ジョージ3世&4世の時代は国内で大きな政治的動乱や世界史的事件も起こらず、比較的平和な時代だったから。
(ただし国外では、18世紀は「戦争の世紀」と呼ばれるほど戦争に明け暮れていました。イギリスが世界中に植民地支配を広げて覇権を確立し始めたのも1700年代です)
当時のヨーロッパ情勢と主な出来事は?
1760年代〜イギリス産業革命の開始
1775年 アメリカ独立戦争
1789年 フランス革命起こる
1799年 ナポレオン戦争勃発(〜1815年)
1805年 トラファルガーの海戦で英勝利
1811年 皇太子ジョージ摂政につく(〜1820年)
1815年 ワーテルローの戦いで英勝利、ナポレオン敗退
1820年 ジョージ4世即位
1825年 英ストックトン・ダーリントン間に初の鉄道が走る
1830年 ジョージ4世崩御
1837年 ヴィクトリア女王即位
1840年 アヘン戦争勃発
ジョージ4世って誰?
ハノーヴァー朝第4代イギリス国王(1762生-1830没)。先王ジョージ3世の長男。
国王としての治世は1820〜1830年と短かったですが、イギリス王室にありがちな、長い皇太子時代+厳格な両親に育てられた反動で放蕩三昧・スキャンダル起こしまくりのお騒がせ皇太子。
よく用いられる形容詞は、女々しく、子供っぽく、派手好きで、自堕落な快楽主義者。
秘密結婚・愛人問題・離婚騒動など何度も女性スキャンダルを起こし、衣服や宝飾品や建築物などに湯水のごとく大金をつぎ込む浪費家でした。(フランスのような革命が起きなかったのが不思議なくらい。産業革命期で経済が順調だったのと議会政治が発達していたからでしょうか?)
当然国民からの人気は高くなく、死去の際『タイムズ』の記事では「この亡き国王ほど、その死を悼まれない王はいなかった」とまで酷評されたほどです。
その一方で、機嫌のいい時の立居振舞いや行儀作法は驚くほど優雅で魅力的。
幼少期に叩きこまれた多くの学識や古典教養に基づいて機知に富んだ会話をし、洗練されたユーモアの話し上手で「ヨーロッパ一の紳士」との評判でした(痩せてた若い頃だけですが)。
絵画、建築、文学、演劇、音楽などに関する審美眼は超一流で、バイロン、シェリダン、ウォルター・スコット、トマス・ローレンス、ターナー、ベートーヴェンなど多くの芸術家のパトロンとして芸術を振興しました。
そのなかにはジェイン・オースティンも含まれ、どの宮殿にもオースティンの全作品を1セットずつ置いておくほどの愛読者だったそう。
1811年の『分別と多感』はなぜか発売日前に購入し(王室の特権か?)、1815年には『エマ』を献呈するのも許可しました(オースティンは別に頼んでませんが)。
また、バッキンガム宮殿、ナショナル・ギャラリー、大英図書館、リージェント・ストリート、リージェンツ・パークなど、現在のイギリスの文化遺産の多くはジョージ四世によるものです。
なんで摂政になったの?
父王のジョージ3世が遺伝性の病気ポルフォリン病に冒され精神的におかしくなり、国王として執務不能になったからです。
ポルフォリン病の症状としては、異常な興奮状態、過剰なお喋り、不眠、痙攣などがあり、時には何時間も誰もいない空間に向かって支離滅裂なことを喋り続けたり、狂人のように暴れ回ったりしていたそう。
いままでも過去4回この病気の発作に襲われていましたが、1810年に発病した時にはもう回復の見込みがないということで皇太子ジョージが摂政を務めることになりました。
ジョージ3世の妻、つまりジョージ4世の母親にあたるのが『ブリジャートン家』にも登場するシャーロット王妃です。
摂政時代ってどんな雰囲気だったの?
良く言えば寛容でダイナミックで自由奔放、悪く言えば堕落して節操のない不道徳な時代。(ロンドンは特にその傾向が顕著)
贅沢放蕩の限りを尽くしたジョージ4世の行動や倫理観は、当然その宮廷に出入りする上流階級の貴族たちに影響を与え、そのマネをする中流階級や大衆たちにも徐々に広がっていきました。
そうやってその時代の雰囲気が形作られていき、王室のイメージが世相にも反映されるというわけです。
そのため、のちの真面目で謹厳なヴィクトリア女王の時代には上品で堅実で家庭を大切にする風潮になりましたが、摂政時代はその正反対の快楽主義的な時代だったのです。
社交界の花形「伊達男(beau)」
まさにこの時代の寵児として持て囃されていたのが「伊達男、洒落男(beau)」と呼ばれる男性たちです。
彼らは当時の社交界を牛耳り、身だしなみに異常なほどの金と時間をかけてこだわったり、互いにそのセンスの良さを競っていました。
金を無駄遣いし、賭博にふけったり、娼婦を愛人として抱えたり、酒に溺れたり、傍若無人な振る舞いをして人々の注目を浴びるのを楽しんでいたのです。
その頂点に君臨していたのがもちろん摂政皇太子ジョージですが、その皇太子の取り巻きの友人でもあり憧れでもあったのがボー・ブランメル(Beau Brummell, 本名ジョージ・ブランメル, 1778-1840)でした。
かのバイロン卿をして「ナポレオンになるよりも、ブランメルになりたい」と言わしめたほどの人物です。
洗練された美的センス、シンプルを完璧の域にまで高めた非の打ち所のないファッション、不遜で皮肉な物言い、冷ややかで気だるい物腰で、中流階級出身ながら国王や大貴族とも対等に付き合い、社交界で不動の地位を占めました。
摂政時代のおわり
このように、摂政時代は道徳的で堅苦しいイメージのヴィクトリア朝とは違い、明るく溌剌としたエネルギーにあふれた華やかな時代でした。
何よりもイギリスの文化芸術が大きく花開いた時代でもありました。
個人的には、ジェイン・オースティンの魅力をいち早く理解していたジョージ4世のことはなんだか嫌いにはなれません(オースティン自身は良く思っていなかったそうですが)。
ジョージ4世の死後は、弟のクラレンス公がウィリアム4世として跡を継ぎますが、65歳という高齢のためその治世はわずか7年で終わり(1830〜1837年)、その下の弟の故ケント公の一人娘、つまり姪のヴィクトリアが18歳で女王の座につきます。
ヴィクトリア女王はイギリス王室公式の宮殿を、それまでのセント・ジェームズ宮殿から、ジョージ4世が約49万ポンド(現代の価値に換算すると約50億円以上)という莫大な費用をかけて改装したバッキンガム宮殿へと移しました。
これ以降、摂政時代の文化を礎として、60年以上に渡るヴィクトリア朝の大英帝国が展開されていくのです。
《参考文献》
生田耕作, 『ダンディズム』中公文庫, 1999.
君塚直隆,『ジョージ4世の夢のあとーヴィクトリア朝を準備した「芸術の庇護者」』中央公論新社, 2009.
新井潤美,『ジェイン・オースティンとイギリス文化』日本放送出版協会, 2010.
C・エリクソン, 古賀秀男訳,『イギリス摂政時代の肖像ージョージ4世と激動の日々』ミネルヴァ書房, 2013.