はじめに
このページでは、『高慢と偏見』『エマ』などジェイン・オースティンの小説を読む際に必要な基礎知識を紹介していきたいと思います。
出版されたのが1800年代初頭の摂政時代(ヴィクトリア朝ではありません…!)であるため、200年前と現代では常識や習慣が異なる部分があります。中には前提知識が十分でないと小説の内容を十分に味わえない可能性があります。
基礎的な背景知識をまとめたので、ぜひ学んでいきましょう。
時代背景
ジェイン・オースティンの作品は全て1811~1820年の摂政時代という時代に出版されています。
ナポレオンのロシア遠征失敗(1812)、ワーテルローの戦いの敗北(1815)などはまさにこの時期で、海軍や陸軍軍人の登場人物が多いのはそのためです。
イギリスはフランスを打ち破って海外でも植民地を拡大し、世界最強の海軍を有する覇権国家としての地位を確立し始め、産業革命により国力を増強していった時期でした。
オースティンの小説では歴史的な出来事はほとんど言及されていません。
オースティンは「自分のよく知らないことは書かない」という主義だったからです。
ただ、当時は産業革命真っただ中で、産業資本家(=商人・成り上がり)たちの勢力が急速に増していたことは知っておくとよいです。
摂政時代についてはこちらもどうぞ↓
職業・階級・収入について
「ジェントルマン」は商売に携わってはいけない
商業に関わるのは下等で卑しいことと考えられていました。「手を動かして働くこと」全般が忌避されていたのです。
真の紳士階級や貴族は、自らが所有する土地の地代収入や、銀行預金や公債からの利子・配当によってのみ暮らしていました。
ただし、商業で財を成した人たちは成り上がり者だとして蔑視されていたものの、その年収において紳士階級を上回る者もいました。
階級移動は簡単ではないが、努力と運次第で可能
出世して成り上がるための主なステップは以下の通り。
ロンドンでの商売に成功する
→週末に余暇を過ごすため、田舎の郊外に屋敷を建てるか購入し、地所を所有する
→やがて田舎の屋敷に定住する
→ロンドンには必要な時だけ赴く
→商売から手を引き、地代収入や動産の利子配当のみで生活する
→二、三世代を経て、名士の仲間入りをする
財力があるだけではジェントルマンとしては認められないため、一代で立身出世することは不可能です。
女性の場合は、「結婚」だけが唯一の階級上昇する手段でした。
当時の主な階層の平均年収(£=ポンド、1806年)
貴族 £8000
ジェントリ £1500〜3000
裕福な商人、銀行家 £2600
製造業者 £800
裕福な聖職者 £500
法律関係者 £350
医者・文学者・芸術家 £260
大小の自由土地所有者 £120〜200
小売商 £150
将校 £139〜149
借地農 £120
職人 £55
農場労働者 £31
ダーシー氏は年収1万ポンド、ビングリー氏は4000ポンド、ベネット氏は2000ポンドです。
また、当時の1ポンド≒現代の1万円と考えてよいです。
※ジェントリとは…その土地の大地主の名士で、必ずしも貴族ではないが、職業には就かずに土地の収入などの不労所得で暮らす人々のこと。財産の多さよりも、先祖代々その土地に住んでいるかという家柄や血筋のほうが重要視される。
立派な職業と見なされていたのは「牧師」か「軍人」か「法廷弁護士」のみ
法律家・軍人・聖職者などの専門職階級は、平均年収では裕福なミドルクラスに劣りますが、社会的地位は比較的高く、ジェントルマンとみなされ立派な職業だとされています。
貴族や大地主の次男以下は土地を相続せず、自らで生計を立てていかなければならないため、このような職業に就くことが慣例となっていました。
登場人物の大半は貴族ではない
時々勘違いされている方がおりますが、登場人物の大半は貴族ではありません。
階級で言うとアッパー・ミドルクラス(上位中流階級)に属します。
また「ベネット家は貧乏だ」という方もおられるのですが、上の平均年収表からも分かる通り、ジェントリの中では普通程度の収入であり、全体からすると決して貧乏な部類ではありません。
19世紀イギリスにおける身分と階級
社会的地位や職業による階級一覧は以下の通り。
中流階級の中でも「ジェントルマンか否か」で上位と下位に分かれ、人々の身分意識も異なります。
オースティンの作品では主にアッパーミドルクラスの人々が登場します。
貴族でもない、ロウアー・ミドルクラスでもないという微妙な立場の人々の俗物的な振る舞いや言動は、オースティンにとっては格好の皮肉の対象だったのでしょう。
この表のさらに下にいるのが、当時は「the poor(=貧しい人々)」と呼ばれたワーキングクラス、労働者階級でした。
爵位を持つ人々
イギリスの爵位を持つ人々には2種類があります。
ひとつは、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の世襲貴族であり、莫大な財産と広大な地所を所有し、階級の中でも最高レベルの頂点に立っています。
敬称は侯爵以下はすべてLord(卿)、公爵のみThe Dukeです。
もうひとつが、彼らより社会的には劣る准男爵とナイト(叙勲士)です。どちらも敬称はSirを付けて呼ばれます。
准男爵は地位としては世襲爵位の中では最下位ですが、貴族ではなく平民でありアッパー・ミドルクラスに属します。
ナイトの位階は非世襲であり、一代限りです。おそらくこれがナイトに准男爵ほどの威光がない原因でしょう。さらにナイトの称号が与えられるのはしばしば「商業」に携わっている人間であり、しかもその叙勲の理由もほとんど滑稽なものばかりでした。
ただし、爵位を持たない者でも、ダーシー家のように名門の家名を持ち、数世代に渡って広大な土地を所有し続けていれば、駆け出しのつまらない爵位を持っている者よりよほど優遇され尊敬されていたそうです。
牧師・聖職禄
牧師になるためには必ず大学(当時はオックスフォードとケンブリッジのみ)を卒業する必要があります。
牧師の唯一の正式な義務は毎週日曜の説教だけで(その他は洗礼式や結婚式、葬式などを執り行う)、十分の一税というかなりの生活水準を維持できる収入、その社会的身分の高さで、誰もが欲しがる職でありました(ただし軍人や法廷弁護士に比べれば、華やかさや名声には劣る)。
また説教以外の仕事はすべて副牧師に任せたり、教区をかけもちすることも普通で、実際その教区に住んでいない牧師も多く存在しました。
オースティンの小説によく登場する「聖職禄」とは、説教や洗礼などの宗教的儀式を行う牧師の職+財産(十分の一税による収入・牧師館への居住権)を指します。
なお、聖職禄は世襲ではないため、もし牧師が亡くなるとその妻や娘たちは一気に家と収入の両方を失い、貧しい暮らしを余儀なくされました(cf.『エマ』のベイツ母娘)。ただし「元牧師の妻/娘」ということで社会的身分はそれなりに高いまま維持され、商人や農民等のロウア―ミドルクラスの連中とは明確に区別され一目置かれていました。(ジェイン・オースティン自身も牧師の娘でした)
教区に牧師を任命する「聖職禄推挙権」はしばしば大地主たちが所有していました。聖職禄の多さは収入増に直結するため、コリンズ氏がド・バーグ令夫人に媚びへつらったり、妻のシャーロットが「フィッツウィリアム大佐より、聖職禄推挙権のあるダーシー氏とエリザベスが結ばれてほしい」と願うのもこのためです。
また、この聖職禄自体を売買して他人に譲渡することもできました。
弁護士
当時のイギリスの弁護士は、法廷で弁論する法廷弁護士(barrister)と、裁判の準備をし依頼人の依頼を受けて事務作業をする事務弁護士(attorney)の二種類に分かれていました。
前者の社会的地位は高く名士とされ、政府の要職に就く者もいました。
後者は上品(genteel)な職業とはみなされておらず、地位も低いものでした。事務弁護士になるのも比較的容易で、100~200ポンドの費用と5年間の下積みでなることができました。ベネット夫人の父親の職業は、この事務弁護士です。
医者
医者の中では内科医(physician)が最高の社会的地位にありました。薬を投与するだけで、手を動かして怪我の治療をすることも外科手術をすることもなかったからです。資格としては大卒以上が必要でした。また田舎の内科医よりもロンドンの内科医の方が格上とみなされていました。
次に来るのが外科医(surgeon)で、手作業を伴う汚れ仕事であり、免許もいらないためその地位は低いものでした。(当時の医学レベルが低かったこともあります)
その違いは呼称にも表れており、内科医は「ドクター」と呼ばれるのに対し、外科医はただ「ミスター」と呼ばれるだけでした。
医学界で最下層に位置するのが薬剤師(apothecary)です。ただ、田舎では内科医のいない地域が多かったため、薬剤師が診療も兼ねることがしばしばありました。
陸軍
陸軍(army)の士官になるためには、その地位をかなりの高額で購入しなければなりませんでした。そのため陸軍の主な構成員は貴族とジェントリの子弟です。(現代のイギリス王室でも、男性はほぼ陸軍に入るのが慣例ですね)
ダーシー氏は最終的にこの陸軍士官の地位をウィカムに購入してやっています。
一方、ウィカムが当初所属していたのはそれより格式の劣る国民軍(militia)です。当時はナポレオン戦争に備えて地域ごとにこのような義勇軍が編成されており、通常の陸軍と違って誰でも入ることができました。この時期の国民軍の雰囲気はかなり乱れたものであり、その訓練も緩いものだったので、暇な時間も多くありました(ナポレオンは実際イギリス侵略することはなかったので)。そのため「鞭打ち刑」などの厳しい規律が必要だったのです。
また一般に、女性たちから見て、陸軍の赤い制服は非常に魅力的に映りました。
海軍
海上生活は過酷であるため少年の頃からその生活に慣れねばならず、海軍に入る年齢は10代前半が普通でした。
陸軍と違って海軍の場合士官の地位をお金で買う必要がないので、貧しい少年や次男以下の男子にとって海軍は陸軍より見込みのある職業でした。
ただし士官になってから出世するためには親戚などの「コネ(縁故関係)」が必要です。
敵船を拿捕して得られた利益で一攫千金が狙えることもありました。
ガヴァネス(女家庭教師)
教育ある女性が自分で生活費を稼ぐ必要に迫られた際に就く、数少ないちゃんとした職業がガヴァネスでした。
中流~上流階級の女性は結婚して主婦になるのが理想とされた当時、ガヴァネスであればかろうじて淑女としての体面を保ちながら働くことができました。
女子教育制度はまだ整っていなかったので、金持ちの家なら必ず一人はガヴァネスを雇っていました(キャサリン令夫人がベネット家の教育に驚いたのも無理はありません)。
しかしその地位は不安定で給料も決して良くはなく、家族の一員でもなく召使でもないという立場は、しばしばガヴァネスを孤立状態に陥らせることもありました。『エマ』のミス・テイラーのように、家族同然に扱われ、金持ちの男性と結婚できたのは相当に幸運な部類です。
生活習慣・文化・儀礼
「午前中」「朝」とは朝食後からディナーまでの時間を指す
当時は朝10時ごろ朝食をとり、昼食はなく(軽食を食べることはある)、午後3〜5時ごろに一日の中心的な食事である「ディナー」を取るのが一般的。
この朝食からディナーの間が”morning”と呼ばれました。日本語の「午前中」「朝」とはかなり意味が異なるので注意が必要です。
いっぽう、ロンドンの貴族など上流階級のあいだでは、遅い時間(午後6時〜8時)にディナーをとる習慣がファッショナブルであるとして広まってきていました(当時ロウソクが高価だったため)。ちなみにビングリー家のディナーの時間は6時半です。
召使と家事について
年収100ポンド以上の家庭なら、どこも最低一人は女中がいるのが当たり前でした。アッパーミドルクラス以上の家の女主人は家政の切り盛りをするだけで、娘たちも家事をすることは一切ありません。実際の料理や掃除などをするのは女中(メイド)です。女主人は食事のメニューを決めたり、召使たちの指揮監督などをするだけでした。また男の召使は税金も給料も高かったので、執事や従僕を雇っていることは富裕層の証でもありました。
ちなみにベネット家は女中頭のヒル、2人の女中、料理人、料理女中、執事、従僕、御者、馬丁、庭師など最低10人以上は召使を雇っていたと考えられます。
上級使用人は主人家族から姓のみで呼ばれ、下級使用人は名前のみで呼ばれます。上級使用人とはすなわち、housekeeper(女中頭・家政婦長), butler(執事), lady’s maid(侍女), valet(従者)です。
(この辺の使用人事情については『ダウントン・アビー』を見るとよく理解できます。高慢と偏見の時代より100年後ですが、全く変わっていません)
↓1825年の召使の平均年収。ギニー(Guineas)≒ポンドと考えてよいです
前述の階級別年収と比べれば、当時どれだけ使用人の人件費が安かったか、そしていかに貧富の差が激しかったかお分かりになるかと思います。
※Dittoは「同上」という意味
呼びかけ方
未婚女性を呼びかける際、その場にいる最年長の者は「ミス+姓」のみで呼ばれ、その下の妹たちは「ミス+名(+姓)」となります。
例えばジェイン・ベネットとエリザベスを呼びかける時はそれぞれ「ミス・ベネット」と「ミス・エリザベス(・ベネット)」です。
初めて話しかけるのは必ず身分が上の人から
社会的地位のある人に対して身分の低い人から話しかけることは重大なマナー違反です。身分の高い人からの、紹介してほしいとの意志が示されなければ、話しかけることも相手の家を訪問することできません。ダーシー氏に話しかけたコリンズ氏の振る舞いは、大変な無礼にあたります。
ダンスを申し込まれたときのマナー
ある男性からのダンスの誘いを正当な理由なく断ると、その舞踏会の間じゅうずっと他の男性とも踊ることができなくなります。断った男性に対して失礼になるからです。(ほかに先約があれば断っても問題ありません)
地方の大きな屋敷には名前がある
イギリスの田舎の壮大な屋敷には、必ず名前がついています。
・パーク(Park):広大な敷地に、美しい田園の風景が広がっているイメージ。
・ホール(Hall):封建時代のように大広間を中心に建てられ、古い高貴な家柄を連想させる。
・マナー(Manor):ノルマン朝時代の荘園の領主が住む家を意味する。古い血筋と堂々たる社会的地位を連想させる。
・アビー(Abbey):元修道院だった建物を表す。ヘンリー8世の国教会設立によりローマカトリックの修道院が解散・没収され、貴族やジェントリに払い下げられた。
・ロッジ(Lodge)・コテージ(Cottage):比較的こじんまりした家。(それでも日本の大きめの一戸建て程度の大きさはある)
小説・貸本屋・図書室
当時の小説は通常3巻からなり、紙も高価だったため、値段も高いものでした(平均的な労働者の一週間分の給料)。そのためあまり裕福でない家庭では、貸本屋(circulating library)で本を借りることのほうが多かったのです。貸本には現代の図書館同様ラベルがついており、すぐにそれと分かるものでした。
またこのような貸本屋では本以外にも日傘や手袋などのさまざまな小物も売っており、一種の社交場ともなっていました。
富裕層は自宅に図書室があるのがステータスであり、数世代かけて蔵書を増やしていきました。ビングリー氏の蔵書が少ないのは比較的最近に富裕層の仲間入りをしたためであり、ダーシー氏の蔵書数の多さは由緒正しい家柄の古さの表れでもあります。
社交界と「シーズン」
一般に貴族やジェントリたちは、クリスマス頃の「シーズン」になると、議会の開始に備えて地方からロンドンに集まり始めます。
(地方の領地とロンドンにそれぞれ邸宅を持つのが富裕層の証です)
冬〜春・初夏ごろまではロンドンでパーティー・舞踏会・演奏会・正餐会などに参加して過ごし、秋(9/1が解禁日)には地方の領地で射撃やキツネ狩り・鳥撃ちなどの狩猟をするのが一般的でした。
ピアノを持っているのはステータス
ピアノが家にあるのはあるていど裕福な人々に限られていたので、金持ちである証でもありました。
例えば『エマ』において、成り上がり者のコール家では、最近新しくピアノを購入したという記述があります(ただしコール家の人々は誰も弾けない)。
旅行
一度遠くに住む友人や親戚宅などを訪問すると、数週間〜数ヶ月近くは滞在するのが普通でした。当時は交通手段が馬車しかなく移動時間がかかり、旅行費用も高額であったからです。
服装・ファッション
18世紀後半「新古典主義」の時代が到来し、古代ローマの共和政を理想とするフランス革命の影響もあって古代ギリシャ・ローマ時代が人々の理想・憧れとなりました。女性のファッションもその影響を受け、コルセットを付けない「自由で自然な姿」が追求されます。髪型にもギリシャ・ローマの影響が見て取れます。
また、18世紀半ばにポンペイ遺跡等が発掘されたことも、古代ローマへの憧れを促していました。
以降、摂政時代が終わる1820年代頃まで、ハイウエストのエンパイアスタイルの全盛期となります。「エンパイア」の名は当時のフランス第一帝政から採られ、ナポレオンの妻ジョゼフィーヌ皇妃がファッションリーダーでもありました。
それ以前にマリー・アントワネットがいち早くシュミーズ(下着)のような田舎風ドレスを採り入れていたことも、シンプルなエンパイアスタイルの流行につながりました。装飾過多で人工的で華美を極めたファッションが頂点に達した反動により、田園趣味や自然回帰に向かう流れが生み出されたのです。
過渡期の1790年代のエンパイアドレスはラウンド・ガウンと呼ばれます。
ボリュームのあるスカート、高い胸下切り替え、綿モスリンの素材などが特徴。
1800年頃にはますます質素になり、ほとんど下着のよう。脚が透けて見えるほど薄いモスリン生地に。
綿織物の衣服が流行した背景には産業革命の発展も大いに寄与していました。それまでインド等から輸入するしかなかった綿織物が、紡績技術の飛躍的進歩・力織機の発明により国内工場の機械で大量生産可能になったため、庶民にも手が届くようになり急速に広まっていったのです。
摂政時代全体を通して色は白がずっと主流ではありましたが、時代が下るにつれて次第に色のついた豪華な装飾のドレスも現れました。
1810年代。エンパイアドレスの完成形。パフスリーブが流行。
1820年代にはウエストラインも徐々に下がり、腰にサッシュリボンやベルトを巻くのが流行しました。パフスリーブや裾の装飾もますます華やかになり、ロマンチックな1830年代ファッションの先がけに。
ちなみに1830年代のファッションはこんな感じ。↓
巨大化した大きな袖(ジゴ袖という)が特徴。腰の位置が完全に下がる。
ドレスの上には長いペリースや、短いスペンサージャケットなどの上着を着用することも。
戸外では必ず帽子(ボンネット)をかぶり、手袋をはめていました(男性も同様)。また既婚女性は独特のキャップをかぶっていました。
摂政時代期の男性ファッションでは、「伊達男」ボー・ブランメルがイギリス紳士服の基準を作ったといっても過言ではありません。
18世紀後半までのフリルやレースでごてごてとした過剰な装飾の男性服から、彼はシンプルで洗練されたスタイルを完成させました。
体にフィットした暗褐色系の上衣に白のチョッキ、ぴったりした長ズボンにトップハット、そして白のクラバット(頸布)が当時の男性ファッションでした。
馬車の種類
馬車を所有することは富裕層の証であり、最低でも年収700ポンドは必要でした。
自家用の馬車を持つということは、税金・維持費・御者や馬丁の給料・お仕着せ料など、多額の出費を覚悟しなければならなかったからです。
馬を飼うための厩舎・エサ代も必要ですし、道路事情の悪さにより頻繁なメンテナンスも必須でした。
なお、オースティンの時代に鉄道は存在しません(鉄道が登場するのは1825年以降)。
コーチ(coach)
箱型の4人乗り四輪馬車。長距離の旅に使われる。
ギグ(gig)
一頭立て2人乗り二輪馬車。地方での短い距離を旅する時に使われる。コリンズ氏が所有しているのはこれ。現代でいうと軽自動車に当たるか。
カリクル(curricle)
二頭立て2人乗り二輪馬車。地方での短い距離を旅する時に使われる。二頭立てのためギグより格が上。ラムトンでダーシー兄妹が乗っていた。
フェートン(phaeton)
軽量の屋根なし二頭立て2人乗り四輪馬車。四輪のため安定感あり。高さがあるものと低いものがある。若者に人気があった。
バルーシュ(barouche)
旅行用の4人乗り四輪馬車。富裕層の間で人気があった。折りたたみ可能な幌付き。夏によく使われた。
シェイズ(chaise)
三人乗りの箱型馬車。二頭立てと四頭立てがある。ビングリー氏やキャサリン令夫人の乗っていた馬車はこれで、四頭立ては持ち主の富の象徴。
郵便・手紙について
料金
郵便料金は一般的に高く、配達される距離と重さに基づいて決められていました。また代金は受け取る側が支払うことになっていました。そのため一枚の紙にあまりにも余白を残すと、料金を支払う相手に対して失礼だとみなされます。
ただし国会議員だけは料金を払わなくてよく、「無料配達(フランク)」で郵便を送ることができました。
料金を節約する方法としては、一枚の紙の裏表にびっしりと書き、さらに紙を90度回転させて、すでに書いてある文字を横切って書くということも行われていました。(読めていたのが驚きですが…)
男女間の手紙のやりとり
家族以外の未婚の男女のあいだで手紙のやりとりをすることは、きわめて不適切なこととされていました。もし未婚の男女間で文通をしていれば、その二人は婚約していると思われても仕方がありませんでした。(逆に言えば、婚約しているなら文通は可能です)
それでも手紙を渡したければ、周囲に気付かれないよう、直接手渡すしかありませんでした。召使に頼むとすぐに噂が広まってしまうからです。
結婚
結婚の仕方
結婚の方法には以下の4つがありました。
①スコットランドのグレトナ・グリーンに行く。つまり駆け落ち。
②結婚予告を掲示し、3週間続けて異議申し立てが出なければ結婚できる。これは安上がりなやり方で、最下層の階級の人たちに限られていた。
③カップルのどちらかが決められた教区で4週間居住すれば、その教区の教会で有料の結婚許可証を発行してもらえる。こちらのほうが一般的で、衆人に知られずにできた。(リディアたちの取った手段はこれ)
④特別結婚許可証を取得する。これがあれば結婚予告することなく、いつでもどこでも結婚ができた。特別許可証はカンタベリー大主教からしか与えられないもので、発行には途方もない金額が必要であり、貴族や大地主などでなければ取得することは不可能だった。そのためステータスシンボルでもあった。
婚約について
一度結んだ婚約を男性側から破棄することは、非常に不名誉な行為でありました。告発され、法的措置を取られるおそれさえありました。そのため、男性は簡単に婚約の約束を反故にすることはできません。婚約破棄することができるのは、実質的に女性側のみだったのです。(『分別と多感』参照)
相続
限嗣相続について
地主の間では、一族の土地財産を減らさずに守っていくため、原則として長男(長子)が地所と屋敷を相続することになっていました(長子相続制)。しかし息子がいない場合は、財産はすべて傍系の直近の男性親族に渡るという取り決めができました。これを限嗣相続といいます。
限嗣相続が定められていると、三代に渡って不動産を抵当に入れたり、分割したり、売却することができません。得られる利益は土地から上がる地代収入のみです。
ただし土地財産の継承に限嗣相続を採用するかは、その一族の初代の意向次第であり、すべての一族にあてはまるわけではありません。(例:ド・バーグ家など)
貴族や大地主でも次男以下は過酷
次男以下はある程度のお金は相続できるものの、家・財産・称号は受け継ぐことができないため、立派な職業に就いて独立し、自ら働いて暮らしを立てていく必要がありました。
したがって結婚市場においては次男以下の人気は低く、長男の争奪戦が繰り広げられていました。ですが全財産を相続し生涯働かずにすむことが確約されている長男は、往々にして甘やかされ堕落した者も多かったようです。
《参考文献》
Jane Austen, David M. Shapard(2012) ,The Annotated Pride and Prejudice: A Revised and Expanded Edition, Anchor.
Jane Austen’s brother and the Royal Oxfordshire Militia mutiny of 1795
村岡健次, 川北稔著(1986)『イギリス近代史』ミネルヴァ書房.
都留信夫編著(1995)『イギリス近代小説の誕生―十八世紀とジェイン・オースティン』ミネルヴァ書房.
ダニエル・プール(1997)『19世紀のロンドンはどんな匂いがしたのだろう』片岡信訳, 青土社.
松岡光治編(2010)『ギャスケルで読む ヴィクトリア朝前半の社会と文化』溪水社.
新井潤美(2010)『ジェイン・オースティンとイギリス文化』日本放送出版協会.
日本オースティン協会編集(2017)『ジェイン・オースティン研究の今: 同時代のテクストも視野に入れて』彩流社.
『高慢と偏見』(2013)中野康司訳, ちくま文庫.
『高慢と偏見』(2017)大島一彦訳, 中公文庫.
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