説得 第1章/エリオット家の人々

説得 オースティン 説きふせられて ◎説得

 サマセット州にあるケリンチ・ホールの当主、准男爵サー・ウォルター・エリオットは「准男爵名鑑1」を読むことが趣味で、もっぱらその本ばかり手に取っているという人物だった。暇な時に「准男爵名鑑」を眺めているとよい気晴らしになったし、ストレスがたまっている時には慰めにもなった。初期に准男爵位を授けられた人々2の数少ない子孫たちについて思いをはせると、賞賛や尊敬の念が湧いてくるし、家庭内の問題のせいで不愉快な気持ちになっても、十八世紀の間にむやみやたらと濫発らんぱつされた准男爵たちのページをめくっていれば、自然とそんな気持ちも哀れみや軽蔑の念に変わるのだった──それに、もし他のページを読んで元気が出なかったとしても、自分の家族の歴史だけはいつも興味津々で読むことができた──サー・ウォルターがいつも開いているお気に入りのページは、次のようなものだった。

❝ケリンチ・ホールのエリオット家

サー・ウォルター・エリオット、1760年3月1日生まれ。妻のエリザベス(1800年没)は、グロスター州サウスパークの郷士3ジェイムズ・スティーブンソンの娘。長女エリザベス、1785年6月1日生まれ。次女アン、1787年8月9日生まれ。長男、1789年11月5日生まれ、死産。三女メアリー、1791年11月20日生まれ。❞

 印刷工の手からなる元の文章は正確には以上のとおりだったが、サー・ウォルターはさらに詳しく自分と家族の情報を書き足して、より正確な記述にしていた。メアリーの誕生日の後にはこんな言葉が続いていた。──

❝1810年12月16日4、チャールズ・マスグローヴと結婚。チャールズは、サマセット州アパークロスの郷士チャールズ・マスグローヴの長男。❞

──そしてサー・ウォルターは、妻が亡くなった正確な日付も書き加えていた。

 その後は、由緒正しく立派なエリオット家の歴史と興隆が、お決まりの文言でつづられていた。初めチェシャ―に居を定めたこと。地方行政官の役職に就き、三期連続で州選出の国会議員を務め、国王への忠誠を尽くした功績でチャールズ二世の即位した1660年に准男爵位を授けられたこと5。それにより、ウィリアム・ダグデイル編纂の『貴族名鑑』で言及されたこと。そして歴代の当主たちが結婚した妻のメアリーやらエリザベスの名前などが、十二折判本のまるまる二ページにわたって記載され、エリオット家の家訓付きの紋章とともにこう結ばれていた。

❝サマセット州のケリンチ・ホールを主な邸宅とする。❞

──そして最後には、サー・ウォルター自身の筆跡でふたたびこう締めくくっていた──

❝推定相続人は郷士ウィリアム・ウォルター・エリオット、二代目サー・ウォルターの曾孫。❞

 サー・ウォルターというのは、徹頭徹尾、虚栄心の塊のような人物だった。つまり自分の容姿と、准男爵という地位に対する虚栄心である。彼は若い頃は目の覚めるような美男子だったが、五十四歳の今でもたいへんハンサムな美男子だった。サー・ウォルターくらい自分の外見を気にするのは女性でも珍しいだろうし、最近貴族になったばかりの主人付き従者でも、彼ほど准男爵という地位にご満悦な者はいないだろう。

説得 オースティン 説きふせられて

サー・ウォルターの考えでは、准男爵の地位に恵まれることこそが最高の幸せであって、その次の幸せは美貌に恵まれていることだった。そしてこの二つの幸せが合わさったサー・ウォルター・エリオットというのは、彼自身がつねに熱烈な尊敬と情熱を捧げている対象なのであった。

 サー・ウォルターが、自分の容姿と准男爵位にこれほどまでに愛着を寄せているのは当然だといえる理由が、一つだけあった。その容姿と地位のおかげで、自分よりもはるかに優れた妻を得ることができたからである。エリオット夫人はたいへんすばらしい女性で、賢くて気立ても良かった。判断力やその振る舞いに関しても、若気の至りでサー・ウォルターなどと結婚してしまったことを大目に見てあげれば、それ以降は何の過ちも犯さなかった。──エリオット夫人は十七年間、夫の欠点をなだめすかしたりやわらげたり、あるいは隠してあげたりして、夫には本当に立派になってもらおうと努めてきた。エリオット夫人は決してこの世でいちばん幸せな女性というわけではなかったけれども、自分の果たすべき義務や友人やわが子たちの中に生きがいを見いだしていたから、いざ天に召されてこの世に別れを告げるときも、現世に名残惜しさを感じていた。──三人の娘たち、なかでも上の十六歳の長女と十四歳の次女を後に残していくのは母として忍びなく思われたし、娘たちをうぬぼれ屋で愚かな父親の権威と指導に託してしまうのは、まことに心苦しかった。しかし、エリオット夫人には非常に親しいある友人がひとりいた。その人は分別を備えた立派な女性であり、エリオット夫人を熱心に慕っていたので、ケリンチ村に引っ越してきて夫人のすぐ近くに住んでいた。エリオット夫人はその友人の親切さとアドバイスを大いに頼りにしていた。娘たちにはいままできちんとした良識や教育を与えようと努めてきたが、彼女がいればきっとすばらしい助けになってくれるだろうし、これからもそうした教えを授けてくれるだろう。

 この友人とサー・ウォルターの仲については、周囲の人たちはいろいろと噂をしたけれども、結局二人が結婚することはなかった。──エリオット夫人が亡くなってから十三年が経ったものの、二人は依然としてご近所さんであり、親しい友人のままだった。サー・ウォルターのほうは男やもめで、ラッセル夫人のほうは寡婦でありつづけた。

 このラッセル夫人というのは年齢的にもすでに落ち着いて、性格も堅実で、たいそう裕福な暮らしをしていたから、再婚など全然考えていなかったし、世間に対して言い訳をする必要もなかった。世間というものは、女性が再婚しなかったときよりも、むしろ再婚したときのほうが不当にも不満を覚える傾向にあるのだ。だがサー・ウォルターが独身でいつづけたことには説明が必要だろう。──サー・ウォルターは、よき父親らしく、愛する娘のために6独身でいることに誇りを持っていた(ただし、一、二度ずいぶんと無鉄砲な求婚をして、ひそかな失望を味わったことはあったけれど)。長女のためなら彼は何だって犠牲にするつもりだったが、それもあまりみずから進んで行なったことはなかった。エリザベスは十六歳にして、可能なかぎりありとあらゆる女主人としての権利と立場を自分の母親から引き継いだ。エリザベスはすごく美人で、父親そっくりだったから、いつも絶大な権力をふるい、二人はきわめて幸せで仲の良い親子だった。サー・ウォルターにとって他の二人の娘たちは大して重要ではなかった。それでもメアリーは結婚してチャールズ・マスグローヴ夫人になったことで、一応ほんのちょっと箔が付いた。だが美しい心と優しい性格を備えたアンは、真の理解者たちからは高く評価されたにちがいないけれども、父親と姉にとっては無に等しい存在だった。アンの発言には何の重みもなかったし、彼女の都合はいつも犠牲にされた──彼女はただの「アン」にすぎなかったのだ。

 もちろんラッセル夫人にとっては、アンは大切な最愛の名付け子であり、お気に入りであり友人でもあった。彼女はエリオット家の娘たち三人全員を愛してはいたけれども、母親の面影を彷彿させてくれるのはアンだけだった。

 二、三年前までは、アン・エリオットはたいそう可愛らしい娘だったのだが、早くも花盛りは過ぎてしまった。一番美しかったときでさえも、父親はアンの顔にそれほど賞賛すべき所はない思っていた(アンの繊細な顔立ちと穏やかな暗褐色の目は、彼とは全然違っていたのだ)。その美しさも色褪せやつれてしまった今となっては、彼が高く評価できるような所は一切なかった。愛読書である「准男爵名鑑」のどこかのページでアンの名前を見れるかもしれない、などとははなから大して期待もしていなかったが、今ではそんな期待は皆無だった。家柄の釣り合う相手と結婚できる可能性は、エリザベス一人にすべてかかっているのだ。メアリーはただ立派な家柄でお金持ちの田舎の旧家に嫁いだというだけなのだから、名誉を与えてやったのはあくまでこちらのほうで、あちらからは何も受け取っていないのである。エリザベスなら、きっといつかきちんとした相手と結婚をしてくれるだろう。

 女性というのは、時として、二十九歳の頃のほうが十九歳の頃よりも美しいということがあるものだ。一般的にいえば、もし病気を患っているとか悩み事を抱えているとかでなければ、それくらいの年齢でもほとんど魅力は失われていないのである。エリザベスの場合もそうだった。十三年前からそうだったように、エリザベスはいまも同じ「美人のミス・エリオット」のままなのだ。だから、サー・ウォルターがエリザベスの年齢を忘れていても仕方ないかもしれない。あるいは少なくとも、周りの他の人たちはみんな見るも無残な容姿になっている中、自分とエリザベスだけは相変わらず美しいと考えていても、完全に愚かだとは言い切れないのである。サー・ウォルターは、他の家族や知り合いたちみんながどれだけ老化しているのか、はっきり目にしていた。アンはやつれていて、メアリーは肌がザラザラだし、近所の他の顔もますます酷くなっていくばかりだ。ラッセル夫人の目尻の皺が急速に増えてきたことも、もうずっと久しく見るに耐えない。

 エリザベスはというと、父親ほど自分に満足しているわけではなかった。十三年間彼女はケリンチ・ホールの女主人として、冷静沈着さと決断力をもって屋敷を管理監督してきたけれども、自分が実年齢より若いと感じたことは一度もなかった。十三年間、彼女はパーティーや食事会でホスト役をつとめ、屋敷のルールを取り決め、四頭立て馬車シェイズ7に乗り込むときも先頭に立ち、客間やダイニング・ルームを出入りするときはラッセル夫人のすぐ後ろを歩いてきた8。十三回の冬が巡って霜が降りるたびに、エリザベスは数少ない近隣の舞踏会で毎回先導役をつとめてきた。十三回の春が訪れて花咲き誇るたびに、エリザベスは毎年父親とともにロンドンに出てきて、数週間上流社交界の楽しみを味わうのだった。彼女はこういったことがすべて記憶にあったし、自分が二十九歳であることを意識すると、一抹の不安と後悔に襲われた。相変わらずかなりの美人であることに彼女は完全に満足していたけれども、危険な年齢に近づいていると感じていた。この先一、二年以内に准男爵家の家柄から立派な縁談が持ち込まれれば、彼女はどんなに大喜びしたことだろう。そしたらまた少女の頃と同じくらい楽しい気持ちで、あの「准男爵名鑑」を手に取ることができるかもしれない。でも今はあの本は好きではなかった。いつも自分の生年月日を見せつけられて、結婚については末の妹の記述以外には何も書かれていないのを目にすると、その本が忌まわしく思われるのだった。何度か父親が近くのテーブルに「准男爵名鑑」を開きっぱなしにして置いておくことがあったのだが、エリザベスは目を背けたまま、その本を閉じてぐっと向こうに押しやるのだった。

 さらにエリザベスには、失恋の経験があった。その本のせいで、特にエリオット家の歴史の記述のせいで、その過去をいやでも思い出してしまうのだった。ケリンチ・ホールの推定相続人は郷士ウィリアム・ウォルター・エリオット氏という人物で、サー・ウォルターも彼が後継者であることにたいそう寛大にも賛成していたのだが、まさにそのエリオット氏がエリザベスに失恋を味わわせたのである。

 エリザベスがまだうら若き少女の頃、もし弟ができない場合には、このウィリアム・エリオット氏が将来エリオット家の准男爵位を継ぐことになると知らされた。そのときからエリザベスはこの人と結婚するつもりだったし、サー・ウォルターも、エリザベスは彼と結婚するものと常々思っていた。エリオット氏が少年の頃はお互いまだ知り合いではなかった。しかしエリオット夫人の死後まもなく、サー・ウォルターは彼との交際を求めるようになった。その申し出はあまり熱心には受け入れられなかったけれども、サー・ウォルターは「若さゆえの気恥ずかしさから遠慮がちになっているのだろう」と好意的に捉え、なおも交際を求め続けた。そしてある春、エリザベスが初めて女性としての花盛りを迎えてロンドンへと出た年、エリオット氏は無理やり紹介の場に引っ張り出されたのだった。

 その頃のウィリアム・エリオット氏はまだ若者で、弁護士になるために法律を学んでいるところだった9。エリザベスは、彼のことをものすごく感じがいい人だと思い、彼の決めた計画なら何でも認めてあげようと思った。ケリンチ・ホールへの招待状がエリオット氏に送られた。その年の間じゅう、彼のことが話題にされ、到着が待たれたが、結局彼がやって来ることはなかった。次の春にもエリオット氏とロンドンで再会したが、相変わらず彼は愛想がよかったので、またぜひにと招待し、首を長くして待っていたけれども、またもや彼は来なかった。やがて次の消息が届くと、なんと彼は結婚したとのことだった。エリオット家の後継者として身を立てていくのではなく、身分は低いが裕福な女性と結婚して、金銭的独立を金で買うことにしたのである。

 サー・ウォルターは憤慨した。エリオット家の当主として、自分に何か相談があってしかるべきではないかと感じたのだ。しかも公然とあの若者を引き立ててやった後なのだから、なおさらだ。サー・ウォルターはこう言った。

「タタソールズの馬競売場10で一度、下院議会のロビーでも二度、わたしたちが一緒にいるところを人に見られているはずだ」

タタソールズ 競馬

サー・ウォルターはこうして不満を表明したが、ほとんど無視されたのは明らかだった。エリオット氏は謝罪を乞おうともせず、あの一家とはもう関わりたくないという態度を示したのである。サー・ウォルターのほうも、彼を交際してやる価値のない人間だと見なし、両者の付き合いはすっかり途絶えてしまった。

 エリオット氏にまつわる、この非常に気まずい過去を思い返すと、エリザベスは数年経った今でも怒りを覚えるのだった。エリザベス自身、彼のことは人としても気に入っていたし、父親の後継者としてはさらに気に入っていた。家柄に強い誇りを抱いているエリザベスにとって、サー・ウォルター・エリオットの長女にふさわしい相手は彼しかいないと思っていたのだ。准男爵名鑑をAからZまで眺めても、自分と対等だとすすんで認める気になれる准男爵は彼しかいなかった。だがエリオット氏はたいへんひどい振る舞いをしたので、エリザベスは今この時(1814年の夏)、彼の亡き妻のために黒いリボンを身に着けてはいたけれども11、彼のことは結婚相手として再考するに値しないと思っていた。最初の結婚は不名誉なものではあったが、先妻との間に子どもはおらず、その不名誉が子孫まで永続する恐れもなさそうだったから、彼がさらに悪いことをしでかさなければ、もしかしたら水に流せたかもしれない。しかしよくあることだが、親切な友人がおせっかいにもわざわざこんな話を知らせてきたのだ。それによると、エリオット氏はサー・ウォルターたちについてひどく無礼な悪口を言っているそうで、自分の属しているエリオット家の血筋や、自分が将来受け継ぐことになる准男爵位についても、軽蔑したような口調でばかにしている、とのこと。これは到底許されるべきことではなかった。

 エリザベス・エリオットの心境は、以上のようなものだった。そういったものが、単調だが優雅で、裕福だが何もすることがない彼女の生活に影を落とす憂いであり、変化を与える心の動揺であった──田舎の狭い交際範囲のなかで長らく代わり映えのない暮らしをしている彼女にとっては、そういった感情も単調な生活を活気づけてくれるものではあったし、家の外では人の役に立つ習慣12もなく、家庭内で発揮できる才能や才芸もない彼女にとっては、空虚さを埋めてくれるいい暇つぶしにもなった。

 しかし、いまではまた別の考え事や心配が生じつつあった。父が金銭問題に悩まされるようになってきたのである。エリザベスは知っていた。いまや父が准男爵名鑑を手に取るときというのは、商人たちからの大量の請求書や、代理人弁護士であるシェパード氏からのありがたくない助言を、頭から追い払いたいときなのだということを。

説得 ジェイン・オースティン

ケリンチ・ホールの収入はかなりのものだったけれども、「ケリンチ・ホールの当主として立派な体面を保つには、これくらい必要だろう」というサー・ウォルターの考えには釣り合わないものだった。妻のエリオット夫人が生きている間はきちんとした規律や節度があり、倹約もできていたので、彼の支出は収入の範囲内におさまっていた。しかし夫人が亡くなると、そうしたまともな心がけもすっかり消えてしまい、その頃から出費が収入を上回るのが常態化した。サー・ウォルターにとって、出費を減らすのは無理な話だった。彼はただ、准男爵サー・ウォルター・エリオットという立場として当然やるべきことをしているにすぎないのだ。だが彼に非はなかったとしても、借金がどんどんかさんでいくだけではなく、それが頻繁に人に噂されるようにもなってきたので、もはや娘13にも隠しておくことができなくなったため、ほんの一部分だけでも打ち明けることにした。

 そこで、この前の春にロンドンに行ったとき、サー・ウォルターはエリザベスにちょっとほのめかしを言って、こんな質問さえした。

「何か節約することができるかな? 何か一つでも節約できるところはあるだろうか?」

──エリザベスは(公正を期すために言っておくと)初めは女性らしく大げさに驚いてみせて、何が切り詰められるか真剣に考えてみた。そして最終的に二つの提案をした。

「不必要な慈善活動をやめるのはどうかしら。それと、客間の家具を新調するのを控えてはどうかしら」

 後になって、エリザベスはこれらに加えてすばらしいアイディアを思いついた。毎年恒例だったアンへのロンドンみやげを買うのをやめるのだ。だがこれらの措置は、それ自体はよいものだったとしても、莫大な借金に対しては焼け石に水だった。その後まもなく、サー・ウォルターはエリザベスにすべてを打ち明けなければならないと悟った。エリザベスには根本的に効き目のある策は何も提案できなかった。彼女は父親と同じように、「わたしは酷い目にあわされているのだわ。わたしはなんて不幸なのだろう」と感じた。二人のどちらも、我慢できる程度に威厳を傷つけず快適さも損なうことなく、浪費を減らす方法を思いつくことができなかった。

 ケリンチ・ホールの所有地のうち、サー・ウォルターが自由に処分できる土地はほんのごくわずかだった。けれども、もし所有地すべてが売却できたとしても、大した違いはなかっただろう。彼は自分に権限のある土地を抵当に入れることにはしぶしぶ同意したけれども、土地の売却にまで身を落とすつもりは決してなかった。ケリンチ・ホールの領地は、彼自身が受け継いだときのように、そっくりそのまま次の代に継承しなければならないのだ。

 そこで、信頼できる二人の友人──近所の市場町在住のシェパード氏と、ラッセル夫人──に助言を求めることにした。サー・ウォルターもエリザベスも、二人のどちらかが何かすばらしい名案を思いついてくれるのではと期待しているようだった。つまり、贅沢三昧の生活をやめることなく、プライドも失わずに、借金を返済して出費を減らす方法を。

 

  1. 准男爵名鑑は、国内の准男爵位について網羅しまとめた本である。准男爵の称号はナイト爵と同じく「Sir」であるが、一代のみのナイト爵と違い、世襲制であるため格上とされる。しかし准男爵は貴族ではなくあくまで平民であることに注意。『説得』のオックスフォード大学出版局版の注釈をつけた研究者ジョン・デイヴィーによれば、本文に登場する『准男爵名鑑』は、おそらくディブレット社が1808年に発行した、全二巻の『イングランドの准男爵名鑑』ではないかとのこと。貴族名鑑や准男爵名鑑はいくつかの種類があるが、たぶん最もよく知られていて、現代でも読まれているのはディブレット社が発行しているものだろう。ジョン・ディブレットは1802年に『イングランド、スコットランドとアイルランドの貴族名鑑』を全二巻で発行し、三年後には『准男爵名鑑』を発行した。
    准男爵名鑑 説得 ジェイン・オースティン
    准男爵名鑑 説得 ジェイン・オースティン
    (参考サイト:新井潤美「ノブレス・オブリージュ——イギリスの上流階級」第三回貴族の称号(下)
  2. 1611年、ジェームズ一世は財源不足の解消を目的として、男爵位とナイト爵の間に新たに准男爵位を設置して販売をした。
    参考文献:仲丸英起「準男爵位の設置とその意義」(2015)
  3. Esq.(Esquire、郷士)はジェントリに付けられる非公式の称号。
  4. 12月16日はジェイン・オースティンの誕生日。なぜわざわざ自分の誕生日をメアリーの結婚の日に選んだのかは不明。なお当時から誕生日を祝う習慣はあった(オースティンは手紙で姉など家族の誕生日を祝う言葉を記している)。
  5. この記述から、エリオット家の准男爵位は1660年の王政復古を起源とすることが分かるので、比較的初期に准男爵に叙爵されたといえるだろう。イギリスでは17世紀半ば、議会派が清教徒革命でチャールズ一世を処刑して共和政を実現させたものの、指導者クロムウェルの独裁政治の失敗により共和政はたった11年で終了。息子のチャールズ二世が亡命先から帰国して王政復古となり、王党派だった者にはこのような論功行賞が行われたり、財源確保のために准男爵位が販売されたりした。
  6. 原文は”for his dear daughter’s sake”。所有格が単数形(‘s)であることに注意。単数形であれば、長女エリザベスのみを偏愛し、次女アンを眼中に入れないサー・ウォルターに対する皮肉となる。なお、複数形”daughters’ sake”の誤植の可能性もあるが、直後の文脈とサー・ウォルターの露骨な依怙贔屓の態度から、訳者は単数形の立場を取る。
  7. シェイズは箱型の三人乗り馬車。二頭立てと四頭立てがある。四頭立てだと二頭立てより迅速に進めて、富も誇示することができる。見栄っ張りなサー・ウォルターとエリザベスの浪費癖が表れている。
  8. ラッセル夫人はナイト爵の夫人(寡婦)である。爵位としてはナイト爵は准男爵よりも下だが、ラッセル夫人は既婚者であるため、未婚のエリザベスより序列が上となる。このように既婚者が未婚者を序列で上回るのは、両者の地位の差がわずかな場合のみ。
  9. 原文はengaged in the study of the lawとしか書かれていないが、この場合はattorney(事務弁護士)ではなく、barrister(法廷弁護士)を指すのであろう。当時はbarristerのみがジェントルマンの職業とされた。
  10. ロンドンのハイドパーク・コーナーに存在した(その後1865年ナイツブリッジ、1965年ニューマーケットに移転)、馬や猟犬の競売場。1766年リチャード・タタソールによって設立された。馬の競売場という場所柄、上流階級の紳士たちの社交場でもあった。なおタタソールズ社は現在でもイギリスとアイルランドで純血種競走馬(サラブレッド)競売事業を手掛けており、ヨーロッパ随一の競走馬オークション会社である。

    A “Look in” at Tattersall’s from Tom and Jerry: Life in London by E Pierce (1821)

  11. 遠い親戚が亡くなった場合は、喪に服す印として黒のリボンを身に着けた。
  12. 貧者に対する慈善活動のこと。
  13. 原文は単数形の”daughter”で、彼は長女エリザベスのことしか考慮していない(直後で彼はエリザベスにしか相談していないので、このdaughterは明らかにアンではなくエリザベスを指す)。
タイトルとURLをコピーしました