独身の男性でお金持ちならば、きっと奥さんを欲しがっているはずだ。これは世に広く認められた真理である。そのような財産のある独身男性が近くに引っ越してくると、近隣の人々はつねにこの真理が頭にあるため、本人の気持ちや意見などおかまいなく、「あの青年は、だれそれの娘さんのお婿さんにぴったりだ」と勝手に決めつけてしまう。
「ねえ、あなた」ある日ベネット夫人が夫に言った。
「ネザーフィールド屋敷についに借り手がついたこと、お聞きになって?」
聞いていないと答えるベネット氏。
「だけどそうなんですよ、ロングの奥様がちょうどここにいらして、何もかも教えてくれたんです」
ベネット氏は返事をしない。
「誰が借りたか知りたくはないんですの?」夫人はじれったそうに叫んだ。
「話したいのはきみだろう、私としては聞くことに異論はないよ」
これは話すきっかけとしては十分だった。
「そりゃあなた、絶対知っておかなきゃならないわ。ロング夫人が言うにはね、イングランド北部の若いお金持ちの紳士がネザーフィールドを借りたそうなの。それでその方は下見のために、4頭立ての馬車1で月曜日にいらっしゃったそうで、とても気に入ったとのことよ。それでモリスさんとすぐに話をまとめてしまったらしいわ。9月29日のミカエルマスまでに正式に契約する予定で、召使いたちは来週末までには屋敷にやってくるんですって」
「その人の名前は?」
「ビングリーよ」
「結婚しているのかね、それとも独身?」
「まぁ! あなた、もちろん独身に決まってるじゃありませんか! 独身でとっても財産があるお金持ちよ。年収4,5千ポンドだそうよ。うちの娘たちにとってなんて素晴らしいことかしら!」
「なぜかね? それが娘たちに何の関係があるんだろうか?」
「ねえ、あなたってどうしてそんなに鈍いのかしら! その方がうちの娘の一人と結婚すればいいと私が望んでること、お分かりのはずでしょう」
「ビングリーさんがここに越してきたのはそんな下心のためかね?」
「下心! ナンセンスだわ、あなたのおっしゃること! でもきっと、ビングリーさんが娘のうち誰かと恋に落ちる可能性は大いにあります。ビングリーさんが引っ越してきたらすぐに、あなたが挨拶に訪れないと」
「そんな必要性は見当たらないね。きみと娘たちで行けばよいだろう、もしくは娘たちだけで行かせてもいいんじゃないのかね。むしろその方がいいかもしれない。きみは娘たちに負けず劣らず美人なのだから、ビングリーはきみを一番気に入るかもしれないよ」
「あなたったら、お世辞なんか言って。たしかに、昔は美しかった時もありましたよ。でも今はもうあえて美人と喧伝するつもりもありません。年頃の娘が5人もいれば、女は自分の美貌について考えることなんかあきらめなければなりませんものね」
「その場合、考えるべき美貌も残されていないことが大半と思うがね」
「とにかくあなた、ビングリーさんが引っ越していらしたら絶対に挨拶に行かなきゃなりません」
「それは保証できないよ、きみ」
「でも娘たちのことを考えてあげてくださいよ。なんて素晴らしい結婚になるか考えてごらんなさいな。サー・ウィリアムとルーカス夫人はご夫婦揃ってご挨拶に行くと決めたそうですよ。もちろん目的はただ一つよ。だってあの人たち普段誰かが引っ越してきても、挨拶に行ったことなんかなかったのよ。絶対にあなた行かなけりゃなりませんわ。あなたが行かなければ、私や娘が男性の家を訪ねるなんて不可能ですもの2」
「きみは慎重すぎるよ。ビングリーさんはきっときみに会って喜ぶさ。なんなら手紙を一筆書いて送ろう。娘たちの中から誰でもひとりお好きなのを選んで結婚してどうぞ、と真心込めた同意をしたためてね。私としてはリジー[エリザベス・次女]を推薦しなくてはならないがね」
「そんなことしてほしくありませんわ。リジーは他の4人と比べて少しも良いところなんかないじゃありませんか。それにジェイン[長女]の半分も美しくはありませんよ。愛嬌もリディア[五女]の半分以下です。でも、あなたはいつもリジーをえこひいきするのね」
「ほかの4人には特筆すべきところはないよ」ベネット氏は言った。「よその少女と同じようにみなばかで無知だ。だがリジーはほかの娘たちより利口なところがあるね」
「あなた、どうしてご自分の子どもたちのことをそんなに酷く言えるんです? 私を困らせて喜んでいるのね。私の傷つきやすい神経のことを全然気遣ってくれないのね」
「それは誤解だよ、きみ。わたしはきみの神経には大いに敬意を払っている。いわば古くからの親友さ。少なくともこの20年、わたしはずっときみがその神経とやらを嘆くのを聞いているんだから」
「ああ! わたくしがどれだけ苦しんでるかお分かりにならないのだわ」
「だがその苦しみを乗り越えてほしいものだ。長生きして、近所に年収4000ポンドの若い男性が大勢やって来るのを見なくちゃならんからね」
「あなたがご挨拶に行ってくださらなければ、もしそんな男性が20人来たって無駄です」
「なぁに大丈夫だ。20人もそんな若者が引っ越して来たら、必ず全員に挨拶しに行ってやろう」
ベネット氏は頭の回転が早く、皮肉なユーモアと、無口さ、気まぐれさなどが奇妙に入り混じった性格であった。そのためベネット夫人は23年間一緒にいても、夫の性格をまだ十分に理解できていなかった。ベネット夫人の性格はもっと単純だった。夫人は理解力が劣っていてほとんど教育もなく、情緒不安定な女性で、何か不満なことがあるとすぐ神経の病気を訴えるのだった。娘たちを良縁に嫁がせるのが人生の目標であり、知人の家を訪れたりゴシップに興じることが日々の慰めなのであった。
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※夏目漱石は『文学論』第7章写実法(国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能)において、この第1章を絶賛している。以下抜粋。(現代語訳は筆者による(一部、廣野由美子著『NHK100分de名著 高慢と偏見』より引用)。原文は適宜、新字新仮名遣いに直した)
【現代語訳】
Jane Austenは写実の天才である。平凡だが躍動する文字を書いて神技の域に達している点において、優に歴史上の大家を超えている。Austenの良さを味わえない者は、写実の妙味を理解できない者であると私は思う。
(中略)
題材はまったく淡々としている。表現もまたさっぱりとしていて、少しの粉飾も用いていない。これはまさに私たちが寝食し日常生活を送る普通の光景である。このあまりにも普通で新奇なところのない光景を眼前に表して、客観的にその機微を楽しむのだ。もし楽しめないなどと思うのならば、あなたは日常茶飯事のやすきに馴れてしまって平凡の偉大さを忘れてしまっているのだ。詩人といい風流人というものは、ややもすれば思いがけない驚天動地のことを捕えて、人々を驚嘆させる文章でなければ文章ではないと思っている。
(中略)
Austenの描くところは単に平凡な夫婦の無意味な会話ではない。誰も興味のない実社会の断片を目の前に表しているだけではない。この一節のうちに夫婦の性格がいきいきと描き出されているという事実は、文字を解する者ならば否定することができないだろう。夫は鷹揚だが、妻は小心なところ。夫の無頓着だが妻の神経質なところ。夫はユーモアを交えつつも相手をからかって楽しんでいるところ、妻は娘の将来を思って策略を練るのに余念のないところ―ことごとく筆端に生命が宿っている。夫婦の年齢も、どのように出会ったかも不明であるが、この一節で彼らの普段の様子を想像するのは容易である。すなわちこの一節は、夫婦の全生涯をこの1ページのうちに縮写しているという点で、最も意義深いものなのだ。ただ縮写しているから意義深いのではない。私たちがひとたび彼らの普段の性格をこの縮図によって把握すれば、他の場面でも彼らがどのような言動を取るか想像し得るからである。
(中略)
人を殺して血を見なければ気が済まないと言い、疾風怒濤がなければ勇ましくないと言い、骨を削り眼をえぐらなければ泣かないと言う。言うのは自由だが、そうすれば深いというのは理解が足りない。目の前で起こる珍事は、人の気持ちを大いに動かすという点では深いかもしれないが、露骨で含蓄に欠けるために浅いとも言えるだろう。ちょっとした笑いの中に多くの涙を含んでいるものもある。泣かなければ泣いたことにならないと思う者には、この笑いは無意味なのかもしれない。
しかし、私にはかえってこれこそが深いものだと思われる。この事情を理解する者こそが、Austenの奥深さを知っているのだろう。Austenの深さを知っている者こそが、平凡平淡な写実の中に潜んでいる深淵さを知っているのだ。
【原文】
Jane Austenは写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文字を草して技神に入るの点に於て、優に鬚眉の大家を凌ぐ。余云う。Austenを賞翫する能わざるものは遂に写実の妙味を解し能わざるものなりと。
(中略)
取材既に淡々たり。表現また洒々として寸毫の粉飾を用いず。これ真個に吾人の起臥し衣食する尋常の天地なり。この尋常他奇なきの天地を眼前に放出して客観裏にその機微の光景を楽しむ。もし楽しむ能わずといわばこれ喫茶喫飯のやすきに馴れて平凡の大功徳を忘れたるものの言なり。かの詩人といい墨客と号するもの、動もすれば動心驚魄の事を天外に捕えて、動心驚魄の筆を紙上に駆けるにあらずんば文章にあらずと思えり。
(中略)
Austenの描くところは単に平凡なる夫婦の無意義なる会話にあらず。興味なき活社会の断片を眼前に彷彿せしむるをもって能事を終えるものにあらず。この一節のうちに夫婦の性格の躍然として飛動せるは、文字を解するものの否定する能わざるところなるべし。夫の鷹揚にして、婦の小心なる。夫の無頓着にして婦の神経質なる。夫の和諧の範を超えずして、しかも揶揄の戯を禁じ得ざる、婦の娘の将来を思うて咫尺の謀に余念なき―ことごとく筆端に個々の生命を託するに似たり。夫婦の寿はもとより知りがたく、遭逢の変また計りがたきはいうを待たずといえども、この一節によりて彼らの平生を想見するは容易なり。すなわちこの一節は、夫婦の全生涯を一幅のうちに縮写し得たるの点において、もっとも意味深きものなり。ただに縮写なるがゆえに意味深きのみならず。吾人ひとたび彼らの性格の常態をこの縮写によって把住するとき、かねてその変態をも像知し得べきがゆえなり。
(中略)
人を殺して血を見ざれば已まずと云い、風雲を叱し、雷霆を呵せざれば壮ならずと云い、骨を剜り、眼を剔せざれば泣かずと云う。云うは可なり。之を以て深しと思うは却って解すべからず。当面の珍事は大に人を動かすが故に深からん。然れども露骨にして含蓄を欠くが故に浅しとも云い得べし。一笑にして万斛の涙を蔵するものあり。泣かざれば泣くと思わぬものには、此笑は無意義なるやも知るべからず。
吾はかえってこれらをこそ深きものと思え。這裏の消息に通ずるものはAustenの深さを知るべし。Austenの深さを知るものは平淡なる写実中に潜伏し得る深さを知るべし。