マンスフィールド・パーク 第48章/エピローグ

マンスフィールド・パーク マンスフィールドパーク  オースティン ◎マンスフィールド・パーク

 罪や不幸について長々と語るのは他の作家たちにまかせておいて、このような忌まわしい話題はできるだけ早く終わらせることにしよう。あまり落ち度のない人たちにはまあまあの幸せを取り戻してやり、それから残りの物語を終えることとしよう。

 何はともあれ、わがファニーはこの時幸せだったにちがいないと分かっているので、わたしとしても満足である。ファニーは周囲の人たちの苦悩に心を痛めていて、自分でも同情していると思っていたけれども、それでも幸せだと感じていたにちがいない。彼女の心の中にはどうしてもこみ上げてくる喜びの源があったからだ。マンスフィールド・パークに戻ると、ファニーはみんなから愛されて役に立つ存在になったし、クロフォード氏からも安全だった。屋敷に帰ってきたサー・トマスは精神的に参っていたけれども、ファニーを完璧に高く評価していることやますます愛情が増したことを、あらゆる点で示してくれていた。こうしたことすべてのおかげでファニーは幸せだったとはいえ、こうしたことが一切なかったとしてもやはり幸せだっただろう。なぜなら、エドマンドはもうミス・クロフォードにだまされる恐れはないからだ。

 確かに、エドマンドは幸せとは程遠い状態だった。失望と未練に襲われながら過去を嘆き悲しみ、決してありえない未来を願っていた。ファニーはそのことが分かっていたし、気の毒にも感じた。でもファニーの悲しみは満足感に根ざしており、すぐに安らぎをもたらしてくれて、あらゆる愛しい気持ちと調和しているものだったから、そんな悲しみならば、誰だって喜んで自分の最高に陽気な気分とさえも交換したいと思っただろう。

 気の毒なサー・トマスは、親としての自分の行動が間違っていたことを痛感していたので、最も長く苦しんだ。そもそもマライアとラッシュワース氏の結婚を認めるべきではなかったのだ。マライアの気持ちは彼も十分理解していたのだから、結婚の許可を与えた自分にも責任があった。物事を都合よく推し進めるために正しさを犠牲にしてしまい、利己的な動機と世俗的な知略に動かされていたのだ。こうした反省の念がやわらぐには相当な時間が必要だった。しかしながら、時間はほとんどすべてのことを解決してくれるものだ。彼はマライアが引き起こした不幸についてはあまり慰めを得られなかったが、他の子どもたちに関しては予想以上の慰めを見出すことができた。ジュリアの結婚は、当初彼が考えていたほど絶望的なものではなかった。ジュリアはしおらしく許しを乞い、イェーツ氏も本当に家族の一員として受け入れてもらいたいと願って、サー・トマスに敬意を払い指導を仰ぐ気になっていたのだ。イェーツ氏はあまりしっかりした青年ではなかったものの、以前のような軽薄さは減りそうな──少なくともまあまあ家庭的になって落ち着きそうな望みはあった。いずれにせよ、思っていたよりイェーツ氏には財産があって借金も少ないと分かったし、自分を一番頼りがいのある相手として畏まって相談しにきたことに、サー・トマスはひと安心していた。長男のトムにもまた慰めがあった。彼はしだいに健康を取り戻したが、かつての無思慮で身勝手な習慣に戻ることはなかった。トムは病気になったおかげで、かえって人間的に成長したのである。つらい経験をしたこと、物を考えるようになったこと、人生におけるこの二つの利点をトムは生まれて初めて学んだのだ。ウィンポール通りでの嘆かわしいスキャンダルについては、彼は罪悪感を覚えていた。あの弁解の余地のない素人芝居のせいで危険な親密さが生まれてしまったのであり、自分も共犯だと感じていたのだ。しかし、トムはもう二十六歳で分別にも欠けておらず、周囲に良い導き手もいたので、そうした反省のおかげでよい影響が長続きした。トムは長男としてあるべき姿になり、父親の役に立つようになったし、堅実で静かな生活を送り、もう自分本位な生き方はしなくなった。

 確かにそれは慰めだった! そしてサー・トマスがそういったトムの好ましい変化に信頼を置けるようになってまもなく、エドマンドも父親を安心させるようになっていた。以前彼がサー・トマスを苦しめていた唯一の心配が取り除かれつつあったのだ──エドマンドの気力が回復してきたのである。この夏の間じゅう、毎日夕方になると彼はファニーと一緒に庭をぶらぶら歩き回っては、木陰に腰を下ろして自分の心境をいろいろと語り、だんだんと諦めの境地に達するとともに、またかなりの快活さを取り戻すことができた。

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 こうした状況や希望がサー・トマスの心を徐々に癒してくれて、失ったものに対する痛みをやわらげ、自分の過ちもある程度は受け入れられるようになった。けれども、「娘たちに対する自分の教育は間違っていた」という確信から生じる苦悩は、生涯完全に消え去ることはなかった。

 サー・トマスは気付くのがあまりにも遅すぎたが、子どもたちがサー・トマスとノリス夫人からまるで正反対の扱いを受けていたことが、彼らの人格形成にたいへん好ましくない影響を与えていたのだ。マライアとジュリアはいつも家でそうした正反対の扱いを経験していた。ノリス夫人が過度に甘やかしてちやほやする態度は、父親の厳格な態度とつねに対照的だった。サー・トマスは、「ノリス夫人は子どもたちを甘やかしているが、そうした悪い点は、自分が厳しい態度で接すれば相殺されるだろう」と期待したのは、とんでもない判断の誤りだったと気付いた。自分は明らかに害悪を助長させてばかりいたのだ。父親の前では感情を抑えつけるよう教えられていたせいで、サー・トマスは娘たちの本当の性格が分からなくなってしまい、溺愛と行き過ぎたお追従によってしか愛情をつなぎとめられないノリス夫人のような人物に娘たちを任せることになり、甘やかし放題にしてしまった。

 ここに重大な失態があったのだ。けれども、その点は確かにまずかったとはいえ、それは自分の教育方針の中で最も深刻な過ちではなかったとサー・トマスは徐々に感じるようになっていた。何か内面的なものが欠けていたにちがいないのだ。そうでなければ、成長するにつれてそうした悪影響も消えていったはずだからだ。ひょっとすると、道徳心が──本当の道徳心が欠けていたのではないだろうか。娘たちは、「自分が果たすべき義務は何か」という意識によってみずからの感情や気性をコントロールすることを、一度もまともに教えられていなかった。義務に対する意識、ただそれだけで十分だったのだ。表面上は宗教的な教えを受けていたものの、その教えを日常生活で実践することは決して求められていなかった。上品な立ち居振舞いを身につけ、習い事に励むこと──それがマライアとジュリアの幼い頃からの公認目標だったが──それは内面的には何の有益な影響も及ぼさなかったし、心には何の道徳的な効果も及ぼさなかったのだ。サー・トマスは娘たちを立派なレディに育て上げたつもりだったが、彼の意識は知能と礼儀作法にのみ向けられていて、品性のほうには向いていなかった。娘たちは、自制心や謙遜の心を持つ大切さについて、彼女たちにとって本当にためになる人たちの口からは、一度も聞いたことがなかったのではないだろうか。

 サー・トマスはこうした教育の欠如をひどく嘆かわしく思い、そんなことがありえるのかと今でもほとんど信じられないほどだった。情けないことに、教育についてはあれだけ気を揉んだり高額な費用をかけたりして配慮を尽くしたにもかかわらず、そうやって育てられた娘たちは自分の義務を理解することもなく、サー・トマスのほうも娘たちの性格や気質をまったく知らないままだった。

 とりわけマライアの気性の激しさや情熱的な性格については、サー・トマスはこの不幸な結末を迎えて初めて知った。マライアはどんなに説得されようともクロフォード氏のもとを離れようとしなかった。彼と結婚するのだという願望を抱きながらそのまま一緒に同棲を続けたものの、やがてそんな望みをかけても無駄だとあきらめざるをえなくなった。そうした悟りから湧きあがる失望感とみじめさのせいでマライアは自暴自棄となり、クロフォード氏への愛情は憎しみに近いものへと変わり、しばらくはお互いに罰を与え合っているかのような生活を送ったが、しまいには彼女のほうから進んで別れる結果となった。

 マライアは、クロフォード氏から「きみのせいでファニーとの幸せをぶち壊しにされた」と非難されるために同棲していたようなものだった。別れの際も、「自分が二人の仲を裂いてやったのだ」という満足感以外、マライアには何の慰めも得られなかった。こんな状況下におけるこんな心持の人間ほど不幸なものはないだろう。

 ラッシュワース氏は、何の困難もなく離婚判決を手に入れた。こうしてこの結婚には終止符が打たれたが、そもそも婚約が結ばれたときの状況からして、よほど幸運でもないかぎりこれより良い結末に終わるはずがなかったのであって、そんな不確かなものに頼るべきではなかったのだ。マライアはラッシュワース氏のことを軽蔑していたし、他の男性を愛していた──ラッシュワース氏のほうもそのことは十分承知していたのだ。愚かさゆえに侮辱を受けたり、身勝手な情熱により失望しても、同情の気持ちはほとんど起こらないものである。ラッシュワース氏は自分の行ないのせいで罰を受けたのであり、彼の妻のより重い罰は、より重い罪を犯した報いだった。ラッシュワース氏は屈辱的で不幸な結婚から解放されたが、そのうちまた別の美しいお嬢さんに魅せられて再婚することになるのだろう。願わくば、次はもっと成功の見込みがありそうな二度目の結婚生活に乗り出してほしいものだ──もしだまされるにしても、少なくとも機嫌よく、お幸せにだまされてほしいものである。一方のマライアははるかに狂おしい思いにさいなまれつつ、後ろ指をさされながら世を忍ぶ隠遁生活を送らねばならず、もはや二度目の結婚への望みや評判の回復はありえなかった。

 マライアをどこに住まわせるかということが、たいへん頭の痛い問題となった。ノリス夫人は不始末をしでかした姪にかえって愛着が増したようで、マライアを家に迎え入れてやりましょうと言い、みんなにも賛同してもらおうとした。しかしサー・トマスはこの提案に一切聞く耳を持たなかったので、ファニーに対するノリス夫人の怒りはさらに激しくなった。なぜならノリス夫人は、「ファニーがマンスフィールドにいるせいで、サー・トマスはマライアの引き取りに反対しているのだ」と考えていたからだ。「あなたのためらいはファニーが原因なのでしょう」とノリス夫人は言い張ったが、サー・トマスはきわめて厳粛な口調でこう言った。

「もしわが家にファニーのような若い女性がいなかったとしても──あるいは身内の男女問わず、ラッシュワース夫人との交際によって立場が危うくなったり、その悪評のせいで傷がつくような若者がいなかったとしても──『彼女を認めて受け入れてほしい』と期待するなど、近隣の人たちに対してそんなひどい侮辱を持ちかけるつもりは断じてありません。娘については──悔い改めた娘であることを願うが──肉親としての立場の許すかぎり、自分は彼女を保護してやるつもりだし、あらゆる安楽を保証して正しい道に進むよう励ましてやるつもりです。だがそれ以上のことは、絶対に許しません。マライアは自分で自分の評判を汚したのであり、決して取り返しのつかないものを取り戻そうとする無駄な試みをして、悪徳にお墨付きを与えるつもりはないのです。少しでも不名誉を軽く見せようとして、自分自身が味わったような不幸を他人の家庭に持ち込む共犯者になるつもりもありません1

 結局、ノリス夫人がマンスフィールドを去って、可哀想なマライアに身を捧げる決心をし、遠く離れたよその土地でひっそり暮らすことになった。そこでは人付き合いもほとんどなく、二人きりで家に閉じこもってばかりいた。かたやマライアのほうは愛情を欠き、かたやノリス夫人のほうは分別が欠けているのだから、お互いの気性によってそれぞれ罰を受ける羽目になったと考えるのが当然だろう。

 ノリス夫人がマンスフィールドから去ったことは、サー・トマスの生活に大きな慰めをもたらしてくれた。彼がアンティグア島から帰ってきた日から、ノリス夫人への評価は下がる一方だったのだ。あの頃から、二人で何か用事をこなしたり日常の付き合いや雑事やちょっとした会話をしたりするたびに、彼女に対するサー・トマスの評価はじわじわと下がり続けていた。歳を取るにつれて性根が曲がってきたのか、あるいは彼がノリス夫人の分別を過大評価していて、以前は不思議なほどその態度に我慢できていたのかのどちらかにちがいない。サー・トマスはノリス夫人が絶えず害悪を及ぼしていると感じていたが、なおいっそう悪いことに、死ぬまでそれが終わりそうな見込みはなかった。ノリス夫人はまるで彼自身の一部のように思われたし、一生耐え抜いていかねばならないのだ。だからサー・トマスがノリス夫人から解放された時は、その幸福感があまりにも大きかったので、もし彼女が苦々しい記憶を後に残していかなかったならば、こんな喜ばしい結果をもたらしてくれたあの災いにあやうく感謝してしまいそうなほどだった。

 ノリス夫人がいなくなっても、マンスフィールドの人たちは誰も残念とは思わなかった。ノリス夫人は、自分が最も愛していた人たちからさえも愛されていなかったのだ。ラッシュワース夫人が駆け落ちして以来、夫人はイライラしっぱなしで、周囲の人たちをひどく悩ませていた。ファニーですらノリス伯母さまのために一滴も涙を流さなかった──ノリス夫人が永久にマンスフィールドを去った時でさえ、ファニーは泣くことはなかった。

 ジュリアがマライアよりも罰を受けずに済んだのは、ある程度は、幸いにして性格や事情が違うおかげだった。だがそれ以上に大きいのは、ジュリアはマライアほどノリス伯母さまのお気に入りではなく、褒めそやされたり甘やかされたりする機会も少なかったからである。ジュリアは美貌でも教養でも二番目であり、マライアより少し劣っているといつも自覚していた。二人のうちでは、ジュリアの性格は生まれつき扱いやすく、怒りっぽくはあるが感情もコントロールしやすかった。教育によりひどいうぬぼれを植え付けられることもなかった。

 ヘンリー・クロフォードへの失恋についても、ジュリアは姉よりもあきらめがよかった。軽んじられたと感じて最初はくやしい思いをしたものの、かなり早くから彼のことはもう考えなくなっていた。ロンドンでの交際が復活して、ラッシュワース氏の屋敷がクロフォード氏の標的になったときも、ジュリアは賢明にも自分から身を引いて、彼にまた心惹かれてしまわないように、他の知り合いの家を訪問することに決めたのだった。これこそジュリアが親戚の家に行った理由だったのだ。イェーツ氏と駆け落ちしやすくすることとは、何の関係もなかったのである。ジュリアはしばらくイェーツ氏のアプローチを許してはいたけれども、それを受け入れるつもりなどさらさらなかった。しかし、突如としてあのマライアの駆け落ちが起こると、父親と実家への恐怖心が高まってきて──自分への束縛がますます厳しくなり自由が制限されるのは確実だと思い──「どんな危険を冒してでも、そんな恐ろしい差し迫った事態からは逃げ出そう」とあわてて決意したのだ。そうでなければ、イェーツ氏の求婚など決して成功していなかっただろう。ジュリアが駆け落ちしたのは利己的な危機感からにすぎず、それ以上の良からぬ思惑はなかったのだ。ジュリアにはこれ以外に方法はないように思えた。つまり、マライアの不品行がジュリアの愚行を引き起こしたのである。

 ヘンリー・クロフォードは若くして独立財産を手に入れ、家庭内で悪い見本を見ながら育ったせいで堕落し、気まぐれに冷酷な虚栄心を満たす日々がちょっと長すぎた。だが彼にはもったいないほどの意外なきっかけで、幸福への道が開かれた。もし彼が一人の女性の愛情を獲得するだけで満足できていたならば──そしてファニー・プライスのためらいを克服し、彼女の尊敬と愛情を努力して勝ち取ることに十分な喜びを見出していたならば、彼にはあらゆる成功と幸福の可能性が約束されていただろう。彼の愛情はもうすでに効き目が出ていたのだ。ファニーから感化を受けた彼は、ファニーに対してもいくらか感化を及ぼしていたのである。もし彼がファニーにふさわしい男だったならば、さらに多くのものが手に入っていたことは間違いないだろう。特にエドマンドとメアリーの結婚が実現していたなら、エドマンドへの恋心を抑えなければならないというファニーの自制心も後押しになっていただろうし、クロフォード氏と過ごす機会も増えていただろう。もし彼が誠実に粘り強く努力していれば、エドマンドとメアリーの結婚から適当な期間が経ったあかつきには、見返りとしてファニーを手に入れられたにちがいないのだ──しかも、ファニー自身の意志で与えられた見返りとして。

 クロフォード氏が当初の計画どおり──彼自身もそうするのが正しいと分かっていたのだが──ポーツマスから戻った後にまっすぐエヴァリンガムへ向かっていれば、彼は自分の幸せな運命を決定的なものにできていたかもしれない。しかし、彼はメアリーから「フレイザー夫人のパーティーのために残ってほしいの」とせがまれ、そうしてとどまるとちやほやもてはやされたうえに、そこでラッシュワース夫人とも顔を合わせた。好奇心と虚栄心の両方がかき立てられ、正しさのために犠牲を払うことになれていない人間にとっては、目先の快楽という誘惑の力はあまりにも強すぎた。彼はノーフォーク行きを延期することに決め、「手紙を書けば目的は十分果たせるだろう」と考えたのか、あるいは「その目的は大して重要ではない」と考えたのか──結局そのままロンドンにとどまった。クロフォード氏はラッシュワース夫人に再会したが、彼女からは冷たい態度であしらわれた。本来なら彼は反感を抱いて、二人は永久によそよそしい仲になるはずだった。けれども彼はそれを屈辱的に感じ、かつては自分の思うがままにその笑顔も操れた女性から無下むげに扱われたことがどうしても我慢ならなかった。怒りをひけらかすあの高慢な鼻を、絶対にへし折らなければならない。マライアの怒りはファニーのことが原因だった。何としてでもあの敵意に打ち勝ってみせて、自分に対する態度では、「ラッシュワース夫人」をかつての「ミス・バートラム」に戻さねばならないのだ。

 このような意気込みでクロフォード氏は攻撃を開始した。そうして根気強く激しいアタックを続けていると、まもなく親しげな交際みたいなものが──思わせぶりな態度のような──恋愛ごっこ的なものが──復活したが、クロフォード氏としてはその範囲で終わらせるつもりだった。しかし、マライアの用心深さに対してめでたく勝利を収めると(最初は怒りから始まった用心深さだったが、もしかしたらそれが二人を救ってくれたかもしれなかった)、彼は予想以上に激しい彼女の情熱に引きずり込まれてしまった。──マライアは本当に彼のことを愛していたのだ。彼女のほうも明らかに喜んで求愛を受けているのに、クロフォード氏のほうからその求愛をいまさら引っ込めるわけにもいかなかった。彼はみずからの虚栄心に足をすくわれてしまったのである。口実にできるような愛情もほとんどなく、ファニーに対する想いはほんの少しも揺らいでいなかったので、ファニーとバートラム家の人たちにこの件を知られないようにすることが彼の最大の目標になった。秘密にするのはラッシュワース夫人の評判のためというより、自分自身の評判を守るために必要だと彼は感じていた。──リッチモンドから戻ってきた時は、彼は「もうラッシュワース夫人に会わなくて済む」と喜んでいたはずだった。──それから後に続いた出来事は、すべてマライアの無分別の結果である。追い詰められたクロフォード氏はとうとうマライアと駆け落ちをしたが、その瞬間でさえもファニーに後ろ髪を引かれていた。だがこの不倫騒動がすべて終わった後、彼はいっそう激しい後悔に襲われた。たった二、三か月一緒に暮らしただけでもマライアとファニーの違いは著しく、ファニーの優しい性格や純粋な心、道徳心のすばらしさを彼はさらに高く評価するようになったからだ。

 不義密通を犯した者への恥辱という社会的制裁は、罪に加担した男性にも平等に課せられるべきである。だが知ってのとおり、女性の貞操を守るために社会が設けているさまざまな障壁の中に、そうした男性への罰は含まれていないのである。この世では、残念ながら不貞に対する罰は男女平等ではないのだ。しかし、来世でのより公平な裁きを期待するまでもなく、ヘンリー・クロフォードのような分別の持ち主なら、相当な苦悩と後悔をみずからに課しているにちがいない──苦悩はときに自責の念に変わり、後悔はみじめさへと変わった──親切にもてなしてくれたバートラム家の人たちへの恩を仇で返し、家族の平和を破壊し、尊敬し愛する最高の友人たちを失い、ついには熱烈かつ理性的に愛していた女性までも失ってしまったのだ。

 バートラム家とグラント家の二つの家族を傷つけ疎遠にさせるような出来事が起こった後に、両家がこんなにも近くで住み続けるとなると、ずいぶん気まずいことになっていただろう。しかし、グラント夫妻はわざと数か月バースでの滞在を延ばして牧師館を留守にしていたのだが、それはたいへんありがたい結末を迎えた。牧師館を引っ越す必要が生じてきたのだ──少なくともそれが実現可能になった。グラント博士が、もはやほぼ望みを失いかけていたコネを通じて、ウェストミンスター寺院の聖堂参事会員職に任命されたのである。その職はマンスフィールドを立ち去る絶好のチャンスを与えてくれただけでなく、ロンドンに住む口実にもなり、おまけにそうした生活の変化に伴う出費をまかなえるだけの高収入も恵んでくれたので、出て行く人たちにとっても残る人たちにとっても、まことに喜ばしいものだった。

 グラント夫人は誰からも愛し愛される性格の持ち主だったから、慣れ親しんだ景色や人々と別れるのは多少心残りがあったにちがいない。でもその幸せな性格のおかげで、どんな土地や社交界であろうと愉快に過ごせるにちがいないし、ふたたびメアリーを家に迎えることができた。メアリーはこの半年の間に、友人、虚栄心、野心、恋愛、失恋にはもううんざりだという気分になっていたので、姉の真の優しさや姉のような良識のある落ち着いた生活を求めていた。──そうしてロンドンで一緒に暮らし始めたが、グラント博士が週三回もの大晩餐会が原因で脳卒中になって亡くなった後も、姉妹はそのまま一緒に住み続けた。メアリーはもう二度と次男以下には恋をしないと固く決心していたけれども、彼女の美貌や二万ポンドの持参金に惹かれて集まってくる伊達男の御曹司や、のらくら者の推定相続人の中から、条件に合う男性を見つけるのはそう簡単ではなかった。その条件とはまず、彼女がマンスフィールドで学んだ高尚な趣味を満足させてくれる人。性格や態度の面でも、これまたマンスフィールドで彼女が重視するようになった家庭的幸福への夢を叶えてくれる人。そして何より、エドマンド・バートラムのことを忘れさせてくれる人。──そんな人はなかなか見つかるはずもなかった。

 この点においては、エドマンドはミス・クロフォードよりもずっと有利だった。ぽっかり心に穴が空いたまま、ミス・クロフォードの後を継ぐに値するだけの女性を待ちわびる必要はなかったからだ。メアリー・クロフォードへの未練を断ち切り、ファニーにも「あれほどの女性と出会うのはもう不可能だ」と話してからすぐに、エドマンドにはこんな考えが思い浮かび始めた。「全然違ったタイプの女性であっても、結構うまくいくのではないか──あるいはそのほうがずっとよいのではないか。ファニーの笑顔や彼女らしさも、メアリー・クロフォードがいままでそうであったように、自分にとって愛おしく大切なものになってきているのではないか。妹のような温かい愛情でも、夫婦愛の土台として十分だと納得させられるかもしれないし、望みはあるのではないか」と。

 この出来事がいつ起こったのか、具体的な時期を述べるのはわざと控えることにしよう。読者のみなさまが各自ご自由に決めていただいてよろしい。なぜなら、克服しがたい失恋から立ち直ったり、不変の愛情が移り変わるのにどれくらい時間がかかるのかは、人によってずいぶん異なるからである。──ただ、これだけは読者諸君にどうか信じていただきたい。つまり、そういう流れになるのがごく自然となったまさにその頃に、そこから一週間も経たないうちに、ミス・クロフォードに対するエドマンドの想いがだんだんと薄れてきて、彼もファニーとの結婚を望むようになり、ファニー自身も同じくらい結婚を望むようになったということである。

 エドマンドがこれまでずっと抱いてきたようなファニーへの愛情は、純真無垢で頼る者のなかった少女ファニーの愛すべき求めに応じて、彼が手を差し伸べてやったことが始まりだった。そして、しだいに価値が高まっていく彼女のあらゆる長所によって、その愛情は完璧なものになっていた。これ以上に自然な変化があるだろうか? ファニーが十歳の頃からエドマンドは彼女を愛し、導き、守ってきた。エドマンドの心遣いによってファニーの精神の相当な部分が形作られたし、ファニーの幸せも彼の親切さをよりどころとしていた。エドマンドにとって、ファニーはたいへん身近で特別な関心の対象であり、非常に大切な存在だったから、マンスフィールドの他の誰よりもファニーを愛しく思っていた。だから、今そこに付け加えることといえば、彼がきらめく黒い色の瞳よりも優しい淡い色の瞳を好むようになったということだけなのである。──彼はいつもファニーのそばにいて心開いた会話を交わし、また彼の気持ちも失恋によってまさに好都合な状態になっていたので、優しい淡い色の瞳が優勢になるまでにはそう長くかからなかった。

 エドマンドがひとたびこの幸福への道を歩み出し、自分でもそのことを自覚すると、思慮分別の面で彼を止めたり、その歩みを遅らせるようなことは何もなかった。ファニーがすばらしい女性であることに疑問の余地はなかったし、趣味が正反対だという恐れもなく、性格の違いにより新たな幸せの希望を見出す必要もなかった。ファニーの心や性格、考え方や習慣については、半ば見ないふりをして目をつぶる必要もなければ、それらの今の状態について自分をあざむく必要もなく、「いつかきっと改善するだろう」と将来をあてにする必要もなかった。ミス・クロフォードに夢中になっていたときですら、エドマンドはファニーのほうが内面的に優れていると認めていた。だから、今のエドマンドはそのことをどう感じているだろうか? もちろん、彼にとってファニーは立派すぎる女性だが、自分にとって立派すぎるものを手に入れても気にする者など誰もいないから、彼はたいそう着実かつ真剣にこの幸せを追い求めることにした。そうすると、ファニーからの励ましが長い間示されないわけがなかった。ファニーは内気で、不安げで、疑念を感じてはいたけれども、彼女のエドマンドへの恋心は自然と伝わっていたので、彼は「もしかしたら上手くいくのではないか」という強力な希望を抱くことができた。それでも、ファニーがその喜ばしい驚くべき事実を彼に打ち明けたのは、だいぶ後になってからのことだった。自分がファニーからそんなにも前から愛されていたと知った時のエドマンドの幸福感はものすごかったはずで、ファニーや自分自身に対してどんなに強い調子の言葉を使ったとしても許されただろう。エドマンドにとっては至福の喜びだったにちがいない! しかし、どんな言葉でも言い表せない幸せは、他にもあったのだ。これまで希望を抱くことすら自分に禁じていた片思いが報われた時の、若いお嬢さんの気持ちについては、あえて述べないでおくことにしよう。

 二人の気持ちが確かめられると、もはや二人の結婚を妨げる障害は何もなく、貧しさや親の反対などという不都合もなかった。サー・トマスでさえも、かねてからこの縁組を期待していたのである。サー・トマスは野心的で欲得ずくの結婚にはもうこりごりして、立派な道徳心や性格をますます重んじるようになっていたし、彼に残された家庭内の幸福のすべてを、最も強力な安心できる方法でつなぎ止めたいと願っていた。サー・トマスは純粋な満足感を感じながら、「若い二人はそれぞれ失恋を経験したけれども、その失恋への慰めをお互いの中に見出す可能性は十分あるだろう」と考えていた。そして結婚の許可を求めに来たエドマンドにも喜んで承諾の返事をしたし、ファニーが娘になると思うと、すばらしい授かりものをしたとしみじみ実感し感動を覚えるほどだった。

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この貧しい少女が初めにこの屋敷へやって来た頃、かつてサー・トマスは「幼い従妹がトムやエドマンドと恋に落ちたりしないだろうか」と心配していたものだったが、その時とはなんという違いだろう。時の流れというものは、人間の計画と意志の間に、このような違いを絶えず生み出し続けるのである。それは本人の意志によるものでもあるし、隣人たちを楽しませるためでもあるのだ。

 ファニーはまさにサー・トマスの望んでいた娘だった。サー・トマスの親切な慈悲の心が、彼自身にとって最高の幸せを育んでいたのだ。サー・トマスはその寛大さのおかげで豊かな見返りが得られたのであり、ファニーに対してはいつも善意の気持ちで接していたから、その見返りは当然のものだった。もしかしたらサー・トマスは、ファニーの少女時代をもっと幸せなものにしてやることはできたかもしれない。でも当時は判断を誤って自分を厳しく見せてしまっていたので、屋敷に来たばかりの頃のファニーの愛情を失ってしまったのだった。しかし今ではお互いのことを本当に理解しているので、サー・トマスとファニーはたいへん強い愛情で結ばれることになった。ファニーがソーントン・レイシー牧師館に落ち着く際も、サー・トマスは「ファニーが居心地よく過ごせるように」とあらゆる親切な配慮を尽くしてやったが、彼はほとんど毎日のように、牧師館までファニーを訪ねに来たり、あるいは牧師館から彼女を連れ出して一緒に出かけたりするのだった。

 バートラム夫人にとって、自己中心的な意味で、ファニーはこれまでずっと大切な存在だったから、喜んで彼女を手放すなどできなかった。バートラム夫人が自分の息子と姪の幸せを願って、二人の結婚を希望するはずもなかった。だが夫人がファニーを手放す気になれたのは、スーザンがファニーの後任として残ってくれたからだ。──スーザンは姪として夫人のそばにずっといることになった──スーザンも大喜びだった!──優しい性格で強い感謝の念を持っていたファニーもその役目にぴったりだったが、スーザンには何でも積極的に取り組む意欲と、夫人のお役に立ちたいという気持ちがあったから、同じくらいその役目にはうってつけだった。スーザンはかけがえのない存在になった。初めはファニーの慰めとして、次はファニーの補佐役として、そして最後にはファニーの代わりとして、マンスフィールドでの揺るぎない地位を確立し、姉の時と同じくらいいつまでもいてくれるものと思われた。スーザンはファニーよりも物怖じせず度胸のある性格だったので、マンスフィールドでは万事すんなりうまくいった。──相手にしなければならない人たちの気性を即座に理解したし、役に立ちたいという気持ちを抑えてしまうような生来の臆病さもなかったため、たちまちみんなから歓迎されて重宝がられた。ファニーが去ってからは、伯母が快適に過ごすための相手役として、その影響力を自然に引き継いだので、おそらくしだいに二人のうちで最も愛されるようになっただろう。──スーザンの有用さ、ファニーの優れた美徳、海軍にいるウィリアムの変わらぬ立派な仕事ぶりと高まる名声、そしてプライス家の他の子どもたちがみんな順調に成功をおさめ、お互いに助け合って生き、自分の支援と援助に恥じない活躍をしてくれていること──そうしたことを見るにつけ、サー・トマスは自分が彼らのためにしてきたことを何度も繰り返し喜ばしく思うのだった。そして、幼い頃から苦労し自制心を身につけることの利点と、努力と忍耐のために生まれてきたという自覚を持つことの大切さを認めるようになった。

 真の美点と愛情にあふれ、財産にも友人にも恵まれているのだから、この夫婦の幸せは、この世の幸せとしてありうるかぎり安泰に思われるにちがいない。──エドマンドもファニーも家庭的で、田舎生活の楽しみを愛していたので、二人の家庭は愛情と安らぎそのものだった。そしてこのすばらしさを絵に描いたような光景のきわめつけとして、グラント博士の死により、マンスフィールドの聖職禄が手に入ることになった。それはちょうど、二人が結婚して収入の増加が必要となってきて2、父親の屋敷から離れているのが不便に感じられるようになってきた矢先のことだった。

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 この出来事をきっかけに、二人はマンスフィールドの牧師館に引っ越した。その牧師館はノリス夫妻が住んでいた時も、グラント夫妻が住んでいた時も、ファニーはいつも遠慮や不安を抱きながら、多少なりとも苦しい気持ちを感じずには近づくことのできない場所だった。しかし、まもなくその牧師館はファニーの心の中で愛しい存在となり、あらゆる点で完璧だと映るようになった。ファニーにとって、マンスフィールド・パークの視界と庇護のもとにある他のものはすべて、昔からずっとそうだったのである。

 

 

 

  1. 不義を犯した娘を許して受け入れれば、近隣の他の家庭に対しても悪影響を及ぼすことになるため。
  2. ファニーとエドマンドの間に子どもが生まれることを示唆している。
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