ウィンチェスター巡礼記〜ジェイン・オースティン最期の地〜

ウィンチェスター ジェーン・オースティン ジェイン・オースティン関連

 

 

1817年7月18日は、ジェイン・オースティンの命日です。
この記事では、2014年イギリス旅行でのオースティン巡礼記を書こうと思います。
ウィンチェスターには、いまでも彼女が最期に過ごした家が残されており、大聖堂には遺体が埋葬され墓碑も置かれています。
ジェイン・オースティンファンにとっては、まさに聖地です。
熱烈なファンとしては必ず訪れるべき場所でしょう。

 

イギリス南部のウィンチェスターにはウォータールー駅から行きます。電車で一時間ほどです。

こぢんまりとした可愛らしい駅。

 

一般的にイギリスはバスステーションが町の中心部にあり、電車の駅は町のはずれにあることが多いです。
ウィンチェスターの繁華街までは1kmほどなので歩くことにしました。
黄色のエリアが、町の中心であるハイ・ストリート。↓

 

ウィンチェスターは中世の雰囲気が色濃く残る場所です。

アングロ・サクソン時代にはウェセックス王国の首都としてロンドンと肩を並べるほど栄えた街でした。(『地球の歩き方』より)

映画レミゼラブル(2012)の撮影もこのウィンチェスターの街で行われたとか!(ウィンチェスター・カレッジ、ウィンチェスター大聖堂付近)

↓街の中心部にある像。

 

↓グレート・ホールもここの観光の目玉。
いわゆる「アーサー王の円卓」があります。
もちろん本物ではなく13~14世紀に作られたものだけど…それでも凄い。

グレートホール ウィンチェスター

近くで見ると意外に大きくてびっくりします。直径5.5m、重さ1.2t。

横にはなぜかヴィクトリア女王の像。

 

町外れにあるウルブジー城跡もすばらしい。絶対に訪れるべき。
廃墟好きにはたまらないんじゃないかな。
もともとは12世紀に建てられたらしい。
メアリ1世(エリザベス1世の異母姉)とフェリペ2世が婚礼のとき、朝食をこの城内のイースト・ホールでとったという記録が残ってるそうです。

入場無料なので係員はいません。
見学者もたまたまこのときはだーれもおらず、廃墟で一人佇んでるのが不思議な気分でした。
このへんで朝食食べたのかなーと想像するのがとても楽しかった。
ピカピカに再現された偽物の建物より、ボロボロでも歴史を感じられる廃墟の方がずっといい。

 

ちなみにホテルはザ・キング・アルフレッド
イギリスにはよくある、パブと宿を兼ねた所。いつも宿の予約はBooking.com使ってます。

間違ってツインを予約してました…が、その分広くて快適でした。
普通に綺麗で何の問題もない宿でした。

 

ご飯はハイ・ストリート沿いのレストランに入ってフィッシュアンドチップスを食べました。ビネガーをたっぷりかけるのが美味しい。

 

さてウィンチェスター大聖堂に向かいますが、その姿が見られるまでの演出がなかなか凝っています。
大聖堂までの道にはずーっと木々が生い茂ってて、なかなかすぐには全容が見渡せないのです。
「早く見たい、まだかな」と焦らされつつ、この緑のトンネルをひたすら歩いていくと…

 

 

まさに「トンネルを抜けると、雪国であった」状態。
目の前に堂々たる大聖堂がドーン!と現れます。大きすぎて私の安物のデジカメでは収まりきらないほどです。
ジェインも同じ景色を見ていたのだろうなぁ。
ジェインの死後、姉カサンドラは「彼女がたいへん褒め称えていた建物の中に埋葬されるのは喜ばしいことです」と手紙に書いています。

ウィンチェスター大聖堂

最初に建設されたのは648年で、その後1079年~1404年の長い年月をかけて現在の形に再建されたそう。
奥行きは170mで、ヨーロッパ最長の身廊を誇ります。
まあーとにかく圧倒されました…入っただけで厳かで神聖な気分になります。

ウィンチェスター大聖堂

なにやらミサの最中でした。

 

さて、お目当てはジェイン・オースティンの墓碑。
ファンは当然知っている有名なエピソードがありますね。

「数年前のことだが、一人の紳士がウィンチェスターの大聖堂を訪ねてミス・オースティンの墓へ案内を請うた。すると係の男はその場所を教えながらこんな質問をしたという。『失礼ですが、旦那、この御婦人には何か特別なことがおありだったんでしょうか。この方の墓を知りたがる人が多いもんですから』」(甥のオースティン・リーによる回想)

オースティンの死後、数十年間はほとんど忘れ去られた存在になっていましたが、それでも少数の根強いファンが絶えることはありませんでした。
オースティンブーム再興のきっかけは、1869年のこの甥の回想録出版からだったのです。

 

墓碑は、入って左の壁側(北身廊)にあります。

この壁に貼り付けてある真鍮製の記念碑は1900年に民間の寄付で作られたものらしい。
ピカピカに磨かれた真鍮からも、きちんと手入れされてるのが分かる。
記念碑のイラストやモチーフに関する説明↓

 

 

こちらが200年前からあった墓碑。床に埋め込まれています。
牧師をしていた兄ヘンリーのコネで、聖堂内の墓碑で埋葬してもらえたそうです。(通常では外の集団墓地)
この地面の下にジェイン・オースティンが眠っているのだなあと思うと感慨深くなりました…みんな上歩いちゃってるけど…

訳してみると↓

ジェイン・オースティンを偲んで
前スティーブントン教区牧師である故ジョージ・オースティン師の末娘
1817年7月18日、長い闘病生活の末、彼女は41歳でこの世を去った。
キリスト教徒らしい忍耐と希望を心の支えとしていた。
彼女の慈悲心、
優しく愛らしい気質、そして
類まれなる天賦の心によって
彼女を知る人全員から尊敬を集め、
親しい家族親戚からはこの上なく温かい愛情を得ていた。彼らの悲嘆はその愛情に比例して大きくなり
その損失は取り返しのつかないものだと知る
だがそんな苦悩の奥底の中で
強固な、だが謙虚な希望によって彼らは慰められるのだ
彼女の慈愛心、献身、信仰心、純粋さによって
その魂は救い主の御前で受け入れられるだろうと

↓チョートンのジェイン・オースティン・ミュージアムにあった、墓碑の写し。
オースティンが小説家であったという記述は一切ありません。
ただ、いかに彼女が家族友人から愛され、心優しい女性だったかということや、その死を惜しむ言葉だけ。
兄のジェイムズとヘンリーによって書かれた文章らしいです。

 

祭壇側からの景色とステンドグラス。

 

オースティンは1817年4月27日に次のような遺言を書いています。証人はおらず、証人の署名はありませんでした。

「私、チョートン教区のジェイン・オースティンは、以下のとおり遺言を残します。私の最愛の姉カサンドラ・エリザベスに、私の葬儀費用と兄ヘンリーへの遺産50ポンドを除いて、私の死時に所有していたもの、または今後私に支払われるべきものすべてを遺贈します。 そしてマダム・ビジョンに50ポンドを贈ります──できるだけ早く支払うようにお願いします。そして私は、この遺言の執行者として、私の最愛の姉を任命いたします。
ジェイン・オースティン
1817年4月27日」

*マダム・ビジョン…ライザ[兄ヘンリーの妻]やその息子の世話をしていた女性。エライザの死後はそのままヘンリーに仕えた。

 

教会の裏側に出ます。今度はオースティンが最期に過ごした家に向かいます。

綺麗なお花畑いっぱい。

 

その建物はCollege street沿いにあります。

 

ちょっとハリー・ポッター感ある通路。

 

 

↓これがカレッジ・ストリート。
右は、イギリス最古のパブリックスクールであるウィンチェスター・カレッジの塀。
入り口からチラッと覗いただけでも、まさにホグワーツの世界だった…内部見学はツアーのみ。予約してればよかったなあと思いました。

グーグルマップより

 

この黄色い建物が、オースティンが亡くなった家です。
現在は個人宅になっているので中には入れません…いつか公開してほしい(;_;)

↓イギリスの歴史的著名人が住んだ家などには必ずあるプラーク。

 

真新しいペンキが塗られてますが、裏のレンガや煙突に当時の雰囲気が感じられる…
ジェインは2階の張出し窓の部屋に暮らしていました。

オースティンの手紙より

私はたいへん居心地の良い部屋にいます。ゲイベル博士[ウィンチェスター校の校長]の庭に面した、張出し窓のついた小さな応接間があります。
(1817年5月27日 ウィンチェスター、カレッジ・ストリート、デイヴィッズ夫人方)

 

目の前には小さな芝生の広場があります。
オースティンも窓からこの景色を見ていたのでしょうね…
綺麗な薄ピンクのバラが咲いていました。

 

オースティン臨終の時の様子を、姉カサンドラが姪ファニー宛ての手紙に詳しく書いているので引用します。(原文はグーテンベルクから読めます)

 

 私の大事なファニー、私たちのもとを去ってしまったあの愛しい人を思うとき、今やあなたは私にとって二重に大事な人です。
火曜の晩に症状がぶり返したときには見た目にも変化が明らかで、長く、静かに眠るようになり、最後の48時間では眠っている時間の方が起きている時間よりも長かったのです。顔つきが変わり、やつれていきましたが、特に体力がなくなっているようには見えず、そのときには彼女の回復が望めないと分かっていても、こんなに早く彼女を失うとは思ってもみませんでした。私は本当に貴重な宝を失いました。大事な妹、このうえない友人。私の生活の太陽で、喜びを大きくし、悲しみを癒やしてくれる人でした。私は思っていることはすべて彼女に打ち明けており、今はまるで自分自身の一部を失ったかのようです。
妹は、どうやら意識を失って静かになるまでの半時間ほどのあいだ、自分がいよいよ死ぬことを感じていました。その半時間のあいだ、可哀想に、妹は苦しい闘いを続けました。はっきりとどこが痛いとは云いませんでしたが、自分の苦痛は人には云えないと云いました。私が何かしてもらいことがあるのと訊くと、死以外は何も欲しくないと答えました。それから妹が口にした言葉は「神様、私に耐える力を与えて下さい。私のために祈って、ああ私のために祈って[“God grant me patience, pray for me, oh, pray for me!”]」でした。
6時15分前くらいに戻ると、彼女は意識の薄れと重苦しさから回復しつつありました。
…どのくらい後かわかりませんが同じ発作が起こり、その後彼女が口で言うことのできない苦しみが始まりましたが、ライフォード氏[医者]が呼ばれ、楽にするための薬を与えると、遅くとも7時には落ち着いて、意識のない状態でした。そのときから息を引き取る朝の4時半まで殆ど手足を動かしませんでしたから、有難いことにもう苦しみは感じていなかったと思います。最期まで息をするたびに頭を微かに動かしていました。私は妹の寝台のすぐそばに座り、膝の上に枕を置いて、放っておくと寝台から落ちそうになる妹の頭を六時間ずっと支えていました。疲れたので、それから二時間半ほどジェイムズ夫人に代わってもらいましたが、再び私が代わってから一時間と少し経ってジェインは息をひきとりました。私は彼女の両眼を閉じてやることができましたし、こうして最後まで妹の役に立つことが出来て満足に思っています。妹の顔には痙攣を起こした様子も苦痛を味わった跡もありませんでした。それどころか、絶えず頭を動かしていたことを除けば、美しい彫像を眺めていたような気がします。棺に入っている今でも、その顔は優しい、穏やかな表情を湛えていて、じっと見つめていると楽しい気持ちにすらなるほどです。…(『ジェイン・オースティン』大島一彦著、中公文庫)

 

↓このカサンドラの手紙を撮影したもの。ジェインと字がよく似ている。

 

 

自分の作品が200年以上経った今でも世界中で愛されて、こんな遠く離れた極東の日本でも読まれていると知ったら、オースティンはどう思うかな。
はるばる何千キロ旅してまでお墓参りをするファンが今でも絶えないなんて、想像もつかないだろうな。
オースティンがこの地球上に、この時代のイギリスに生まれてきてくれたことを神に感謝したい…(-人-)

人間の普遍性を描いた彼女の作品はこれから何百年先も読まれ続けるでしょうね。時代も言語も超えて、永遠に古くなることはないでしょう。
日本でも、もっと読んでくれる人が増えますように。

 

 

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