屋敷に帰ると、ファニーはこの思いがけなく手に入った疑惑のネックレスを、東の部屋にある小箱にしまうために、すぐさま二階にかけ上がった。その小箱の中にはこまごました宝物を全部入れているのだった。だがその部屋のドアを開けると、びっくり仰天したことに、エドマンドが書き物机のところに座って何か書いているのだった! こんな光景はいままで一度も見たことがなかった。それは嬉しいと同時にほとんど驚くべきことでもあった。
「ファニー」とエドマンドはすぐに腰を上げて、ペンを置きながら言った。彼の手には何かが握られていた。「勝手に部屋に入ってごめん、きみを探しに来たんだよ。そのうち戻ってくるかと思ってしばらく待ってたんだけど、用件を書いたメモを残そうと思って、インクスタンドを使わせてもらってたんだ。ほら、ここに最初のほうだけ書いたきみへのメモが置いてある。でもこうして会えたことだし、自分で用件を話すよ。といってもただ単にこれを受け取ってほしいってだけなんだ、つまらない物だけど──ウィリアムくんの十字架に通す鎖だよ。本当なら一週間前には渡せていたはずだったんだが、トムのロンドン到着が予想より数日遅れてしまってね。ついさっきノーサンプトンで受け取ったところなんだ。この鎖を気に入ってくれると嬉しいよ、ファニー。シンプルな物が好きなきみの趣味を考慮したつもりだ。だけどいずれにせよ、優しいきみならぼくの気持ちをくみ取ってくれるだろうし、古くからの友達の愛情の証として受け取ってほしい」
彼はそう言いながら急いで出ていこうとした。何千もの苦痛と喜びの感情が一気に押し寄せてきて、ファニーは口をきくこともできなかったが、これだけは言わなければと思い、気持ちを奮い立たせてこう呼びかけた。
「ああ、エドマンド! 待って、待ってください!」
彼は振り返った。
「どうやってお礼を言えばいいのか分からないほどです」ファニーはそわそわとひどく動揺したようすで続けた。「感謝どころではありません。言葉では到底言い表せないほどですわ。こうやってわたしのことを考えてくれたなんて、あなたはあまりにも優しすぎて──」
「ファニー、お礼を言いたいだけなら──」とエドマンドは微笑みながらまた背を向けようとした。
「いえ、違うの、そうじゃありません。あなたに相談したいことがあるんです」
ファニーはほとんど無意識に、彼が手渡してくれた包みを開けてみると、いかにも宝石商の手で美しく包装された箱の中に、シンプルで上品な金の鎖が入っていたのだった。ファニーは思わず声を上げた。
「まあ、なんて綺麗なんでしょう! これこそまさにわたしが欲しかったものだわ! こういうアクセサリーが欲しいと思っていたの。きっとあの十字架にもぴったり合いますわ。必ずふたつ一緒に付けます。しかも、こんなにもありがたい時に頂けるなんて。ああ、エドマンド! どれだけわたしがありがたく思っているか、お分かりにならないでしょうね」
「ファニー、きみはずいぶん大げさだなぁ。その鎖を気に入ってくれて嬉しいよ。明日の舞踏会にも間に合って本当によかった。だけど、そこまでオーバーに感謝されるようなことじゃないんだよ。ぼくにとってはね、きみの喜びに役立てることがこの世で一番の喜びなんだ。いや、これほど純粋で完璧な喜びはないと言ってもいいくらいだ。別に何の後ろめたさもないからね」
こんな愛情あふれる言葉をかけられて、ファニーは胸がいっぱいになり、一時間はもう何も言わずに過ごせそうなほどだった。だが、エドマンドがほんの少し待った後こう声をかけてきたので、ファニーは天に舞い上がった心を地上に降ろしてこなければならなかった。
「それで、ぼくに相談したいことって何だい?」
その相談とは例のネックレスのことだった。ファニーは今となってはこれをもう返却したくてたまらなかったので、返してきてもよいか彼の賛同を得たかったのだ。彼女はつい先ほど牧師館を訪問した経緯を説明したが、これでさっきの幸福感はおしまいになってしまった。というのもエドマンドはその事情にすっかり感動して、ミス・クロフォードの親切な行為に大喜びし、自分たちの行動が一致したことに大変嬉しそうにしていたからだ。そのためファニーは、もっと大きな影響力を持ったある喜びがエドマンドの心にはあるのだと認めざるをえなかった。ただし、こちらの場合はファニーを困らせることになるので、後ろめたさはあるだろうけれども。しばらくの間は彼の注意を引きつけることもできなかったし、ファニーが彼の意見を求めて呼びかけても、返事をもらうこともできなかった。エドマンドは時々ミス・クロフォードへの賞賛の言葉を二言三言つぶやいたりするだけで、うっとりと物思いに浸っていたのだ。だがはっと我に返ると、彼はファニーの希望に対して断固反対した。
「ネックレスを返すだって! とんでもない、ファニー、絶対ダメだよ。そんなことをしたらミス・クロフォードは深く傷ついてしまうだろう。友達の幸せのために役立ちたいという、至極当然の願いを込めてプレゼントした物を突き返されるなんて、これほど不愉快なことはない。なぜミス・クロフォードからその喜びを奪うんだい? それに値するだけのことをしてくれたのに」
「もし最初からわたしのためにくれていた物なら、わたしも返そうだなんて思いません」とファニーは言った。「でも元々あのネックレスは彼女のお兄さまからのプレゼントなのだし、あなたから鎖をいただいてもう必要じゃなくなったのだから、ミス・クロフォードが持っておくべきと考えるのが当然じゃありません?」
「もう要らないだなんて絶対彼女に思わせてはいけないよ、少なくとも嬉しくないだなんて思われちゃダメだ。元々お兄さんからのプレゼントだったとしても大した違いはない。だってミス・クロフォードは、お兄さんからのプレゼントだからといってきみにそのネックレスをあげたり受け取ってもらうのを躊躇したわけじゃないんだから、それを持っていても別に問題はない。もちろんぼくのあげた物よりずっと素敵だろうし、舞踏会の場にもふさわしいと思うよ」
「いいえ、違うんです、この場合は全然素敵ではないんです。わたしの目的にもあまりふさわしくはないの。この鎖はウィリアムの十字架と本当にぴったりだし、あのネックレスとは比べ物にならないくらいなんです」
「ねえファニー、一晩でいいから、たった一晩でいいから我慢してくれないか──たとえそれが犠牲を払うことになるのだとしても。よく考え直してみれば、きみの幸せを熱心に願っている人を悲しませるより、犠牲を払ったほうがよいと思うはずだと信じているよ。ミス・クロフォードのきみへの思いやりは──きみにはもったいないほどだとは言わないけど──まさかそんなこと決して思っていないけど──いつも変わらないままだった。なのにその心遣いを突っぱねるなんて、恩を仇で返していると思われるに違いないし(もちろんそんなつもりは毛頭ないのは分かっているけれども)、きみの性格にも合わないことだよ。明日の晩には、予定通りそのネックレスをつけておくれ。この鎖は舞踏会のために注文したものではないのだし、普段用に取っておいてくれたらいい。これがぼくの忠告だ。いままでぼくは、きみたちの仲の良さを最高に嬉しく思って眺めていたのに、二人の仲が悪くなるところなんて見たくないんだ。二人とも本当に心が広くて、生まれつき繊細な思いやりがあるという点で、性格もすごくよく似ている。多少違うところはあるにしても(おもに生まれ育ってきた境遇の違いが原因だけど)、それは完璧な友情を結ぶのに大した妨げにはならない。二人の友情に影が差すなんて嫌なんだ」とエドマンドは少し声を落として繰り返した。「ぼくにとって、この世で誰よりも愛しい二人の間に」。
エドマンドはそう言いながら部屋を出た。後に残ったファニーは何とか気持ちを落ち着けようとした。自分は、彼にとってこの世で誰よりも愛しいうちの一人なのだ──それはファニーの心の支えになったにちがいない。だけどもう一人は!──1番目に大切な人は! 彼があんなにもはっきりとミス・クロフォードへの思いを口にするのを今まで聞いたことはなかった。もうずっと前からそうなのだろうと気付いてはいたけれども、グサリと胸を一突きにされたようだった。──なぜならそれは彼自身の決意と考えを物語っていたからだ。もう決まってしまったのだ。彼はミス・クロフォードと結婚するつもりなのだ。もう長い間予想していたことではあったけれども、たしかにそれはグサリときた。彼の言葉に感動を覚えられるようになるまでには、「わたしは彼にとって最も愛しい二人のうちの一人なのだ」とファニーは何度も何度も心の中で繰り返さなければならなかった。もしミス・クロフォードがエドマンドに値する人だと思えたなら──ああ! 全然事情が違ってくるだろうに──はるかに耐えられただろうに! でもエドマンドはだまされているのだ。彼はミス・クロフォードには存在しない長所を見ている。彼女の欠点は以前のままなのに、エドマンドには見えていないのだ。こんなことを考えながらファニーはさめざめと多くの涙を流すと、ようやく乱れた心を抑えることができた。その後はがっくりと失望感に襲われたけれども、「どうかエドマンドが幸せになれますように」と熱心に祈ることでしかその落胆を和らげるすべはなかった。
ファニーとしては、エドマンドへの行き過ぎた愛情や、身の丈を超えた愛情をすべて抑えようと努めるつもりだったし、それが自分の義務だと感じていた。これを失恋、あるいは失望と呼んだり想像したりすることすらおこがましいだろう。というのもファニーは、自分の謙虚な気持ちを表現するだけの言葉を持ち合わせていなかったのだ。ミス・クロフォードが彼のことをどう思おうと許されるだろうが、自分も彼女と同じようにエドマンドのことを思うなんて狂気の沙汰だ。いかなる場合であろうと、彼は自分にとって友達以上に愛しい存在にはなりえないのだ。なぜこんな罪深い禁じられた考えが浮かんできたのだろう? 想像の片隅にさえ思い浮かんではならないのに。ファニーは何とか理性的になろうとした。そして分別ある理性と誠実な心でもって、ミス・クロフォードの人柄を公正に評価し、エドマンドのことを本当に心配するのにふさわしい人間になろうと努めた。
ファニーは自分の信条を貫く精神力を備えていたし、自分の義務を果たそうと決意していた。でもまだ若く未熟で自然な感情も多く持ち合わせていたから、次のような行動を取ったとしてもそう不思議ではないだろう。ファニーはしっかり自制心を保つ決意を固めてから、エドマンドの書きかけの手紙をまるで念願の宝物かのように手に取り、「愛するファニーへ、どうかこれを受け取ってほしい」という言葉をこの上なく愛おしく眺め、世界一大切な贈り物としてその鎖を箱にしまった。エドマンドから手紙に近いものをもらったのはこれが初めてだった。また手紙をもらう機会などもう二度とないかもしれない。書かれた状況や、その文体の点においても、これほど完璧に満足のゆく手紙をもらえることはありえないとファニーは思った。どんなに優れた作家の手で書かれた二行であってもこれほどまでに賛美されることはなかったであろう。どんなに熱心な伝記作家の記録であってもこれほどまでに愛でられることはなかっただろう。女性の愛の情熱というものは、伝記作家のそれをもはるかに上回るのである。ファニーにとっては直筆の手紙というそれ自体が、内容は何であろうと幸福そのものなのだ。エドマンドが書いたのは何の変哲もない文字だけれども、こんな素晴らしい文字は他のどんな人間の手でも刻まれたことはないのだ! 走り書きではあるが、欠点は何一つない。「愛するファニーへ」という最初の四語の流れや並びもまさに至高であり、ファニーはいつまでも永遠に眺めていられそうだった。
このように理性と感傷を巧みに入り交じらせながら、物思いを抑えて心を落ち着かせると、やがてファニーは階下に降りて伯母のバートラム夫人のそばでいつもの仕事に再び取りかかり、気落ちしたようすは一切見せずに、普段と変わらずバートラム夫人のお世話をすることができた。
木曜日──希望と喜びが約束された舞踏会の日──がやってきた。そんな日はたいてい思い通りにいかず厄介な一日になりがちだが、ファニーにとっては予想以上に嬉しい始まりを迎えた。というのも、朝食後クロフォード氏からウィリアム宛てに大変親しみのこもった手紙が届いて、明朝から二、三日ロンドンへ行く用事があるのでぜひとも旅の道連れがほしい、と書かれていたのだ。そのためもしウィリアムが予定より半日早くマンスフィールドを出発できるならば、どうか自分の馬車に乗っていただきたい、とのことだ。クロフォード氏は、ロンドンの叔父宅にいつもの遅いディナーの時間1までには着くつもりなので、ウィリアムはクロフォード提督とのディナーに招待されたのだった。
この提案はウィリアム本人にとっても大変喜ばしいものだったし、陽気で愉快な友人とともに早馬の四頭立て馬車2で旅をすると考えただけでも楽しくなった。ウィリアムはそれを早馬の急使が上京するさま3に例え、その威厳や喜びについて、さっそく想像のつく限りあらゆることを言って褒め称えた。ファニーはまた別の動機から大喜びしていた。なぜならウィリアムは元の計画だと前日の晩にノーサンプトンから郵便馬車4でロンドンへ行かねばならず、そうするとロンドンでポーツマス行きの馬車へと乗り継ぐ前に、一時間も休憩する暇がないからだ。クロフォード氏のこの申し出によって、ファニーとウィリアムの一緒に過ごす時間がかなり奪われてしまうのだが、それでもファニーは兄がそのようなしんどい旅をしないで済むことが本当に嬉しかったので、他のことは何も考えられなかった。サー・トマスは別の理由でこの計画に賛成していた。甥がクロフォード提督に紹介されるのは昇進のために役立つかもしれないし、提督はきっとその方面に影響力があるとサー・トマスは信じていた。全体としてこの手紙は吉報であり、クロフォード氏自身も立ち去るという喜びも相まって、ファニーの上機嫌は昼頃まで続いた。
舞踏会がいよいよ間近に迫ってくると、ファニーは不安と恐怖のあまり、当然感じるべき楽しみの半分も味わうことができなかった。もっと気楽な立場で──ただし、さほど目新しさも興味も特別な喜びも感じていない立場で──この同じイベントを楽しみにしている多くのお嬢さんたちが「ミス・プライスはきっとこの舞踏会を心待ちにしてるわね」と想像するほどの楽しみは、半分も感じられなかった。ミス・プライスは──その名前は招待客の半分にしか知られていなかったが──初めて社交界デビューしてお披露目されるのであり、この晩の女王と見なされるだろう。ミス・プライスほどの幸せ者がいるだろうか? だがファニーは社交界デビューするような教育をされてはいなかった。もしファニーが、「この舞踏会はミス・プライスのために開かれているのだ」と世間一般には考えられていると知ったならば、さらに落ち着かない気持ちになっていただろう。何かヘマをしてしまうんじゃないか、みんなの視線を浴びるんじゃないかとただでさえ恐ろしいのに、ますます恐怖心が大きくなっていただろう。とりあえずあまり目立たないように、そして疲れすぎないように踊ること。その晩の半分くらいは体力とダンスの相手が続いてくれること。エドマンドとは少し踊って、クロフォード氏とはあまり踊らないようにすること。ウィリアムが楽しんでいる姿を眺めること、そしてノリス夫人にはなるべく近寄らないようにすること。こういったことがファニーのせめてもの目標だったし、彼女にとって最高の幸せの可能性を意味しているように思われた。
この程度がファニーの精一杯の望みだったから、そのような希望が常に心を占めているわけではなかった。ファニーはおもに二人の伯母たちの相手をして退屈な午前中を過ごしていたが、あまり浮かない見通しで気分が沈むこともしばしばだった。ウィリアムはというと、この滞在最終日を思いっきり楽しもうと決めて鳥撃ちに出かけていた。エドマンドは──その理由はファニーにもいろいろ推測できたが──牧師館に行っていた。そのためファニーはたった一人でノリス夫人の嫌味に耐えねばならなかった。ノリス夫人は、女中頭が夜食の準備について自分のやり方を押し通すので不機嫌になっていたのだ5。女中頭ならノリス夫人を避けられるかもしれないが、ファニーは夫人を避けようがなかった。とうとうファニーはぐったりとくたびれ果てて、舞踏会に関するすべてのことがうんざり思えてくるほどだった。ノリス夫人の小言に追い立てられながら客間を出て、自分の部屋に向かうときには、「わたしはもう幸せにはなれないんだ。舞踏会に参加する資格なんてないんだ」という気分にさえなっていた。
ゆっくりと階段を上りながら、ファニーは昨日の出来事について考えていた。牧師館から戻ってエドマンドが東の部屋にいるところを見たのも、ちょうど今頃の時間だった。──「もしも今日もまたエドマンドがいるのを見つけたなら!」ファニーは夢見心地に浸りながら、そう独り事をつぶやいていた。
「ファニー」
その瞬間、近くから声がした。ファニーが驚いて見上げると、いまたどり着いたばかりの廊下の向こう側から、別の階段の上のほうに立っているエドマンドの姿を目にした。彼はファニーのほうにやって来た。
「何だかぐったりしてしんどそうだね、ファニー。遠くまで歩きすぎたんだね」
「いいえ、今日は全然外には出ていません」
「それじゃもっと悪い、家の中にいすぎて疲れたんだ。外に出ればよかったのに」
ファニーは愚痴をこぼすのは嫌だったので、何も答えないのがいちばん楽だと思った。エドマンドはいつもどおり優しく彼女のことを見つめてくれたけれども、すぐにファニーの表情には考えが及ばなくなってしまったようだった。エドマンドは元気がなさそうで、たぶんファニーとは何か無関係のことがうまくいかなかったようだった。二人の部屋は同じ上の階にあったので、一緒に階段を進んだ。
「さっき牧師館から戻ってきたんだ」とやがてエドマンドは言った。「何の用事だか大体見当はつくだろうね、ファニー」彼は何か意識しているようすだったので、ファニーはたった一つの用事しか思い浮かばず、ショックのあまり言葉も出なかった。──だが「ミス・クロフォードに、最初の二曲のダンスを申し込もうと思ってね」という説明が後に続くと、ファニーはみるみる生気を取り戻した。そして何か言うのを求められていると気付いて、「それで、結果はどうでしたか」というような言葉を口にすることができた。
「うん、ミス・クロフォードは承諾してくれたよ」とエドマンドは答えた。「でも(ぎこちない笑みを浮かべながら)ぼくとダンスするのはこれが最後だって言うんだ。本気ではなさそうだったし、ぼくも本気じゃないと信じてるよ─でもそんな言葉は聞きたくなかった。牧師とは踊ったことはないし、これからも絶対に踊るつもりはない、って彼女は言うんだ。よりによってこんな日に──つまり、ぼくが聖職叙任されるまさにその週に──舞踏会なんてなければよかったのに。明日、ぼくは家を出発するよ」
ファニーはなんとか気を奮い立たせてこう言った。
「そんなつらいことがあったなんて本当にお気の毒ですわ。聖職叙任式はおめでたい一日になるはずでしたのに。伯父さまもそう願っていましたわ」
「ああ! うん、もちろんさ、めでたい一日になることだろう。何もかもうまく収まるはずだ。ただほんの一瞬苦しめられただけなんだ。舞踏会のタイミングが悪いと思ってるわけじゃない。──そんなことは大して重要じゃない。でも、ファニー」──エドマンドは彼女の手を取り、真剣な表情で声を低めて言った。「これが何を意味しているか、どういうことなのか分かるだろうね。なぜぼくがこんなにも苦しんでいるのか、たぶんぼくが話すよりもきみのほうがよく分かってると思う。だけどちょっと話を聞いてほしいんだ。きみは優しくて聞き上手だからね。今朝のミス・クロフォードの態度には傷ついたし、打ちひしがれたよ。ミス・クロフォードはきみと同じくらい優しくて欠点がない性格だと分かっているけども、今まで付き合ってきた人たちのせいで、その悪影響が会話や口にする意見にまでうっすら及んでるようなんだ。不道徳な考え方をしてるわけじゃないけど、そういったことを口にするんだ──冗談めかして話すんだ──ぼくだって冗談だと分かってはいるけれど、本当に心の底から悲しくなったよ」
「教育のせいですね」とファニーは静かに言った。
エドマンドは同意せざるをえなかった。
「そう、あの叔父さんと叔母さんの影響だ! あの人たちが世にも美しい心を駄目にしてしまった!──ねえファニー、正直に言うと、時々それが態度だけの問題とは思えないことがあるんだ。彼女の心そのものまで汚されてしまったかのように見えるんだ」
ファニーは自分の意見が求められていると思ったので、少し考え込んだ後、こう言った。
「あなたのお話を聞くだけでしたら、できる限り力になるつもりですわ。でも、わたしにはアドバイスをする資格はありません。わたしに意見など聞かないで下さい。わたしにはそんなことできません」
「そうだね、ファニー、きみがそんな役目を嫌がるのも当然だ。だけど別に恐れる必要はないよ。この件では決してきみの意見を求めたりはしない。こういった類の話題は、他の人の意見など聞くべきじゃないんだ。聞く人などほとんどいないだろうが、もしそんな人がいるとしたら、自分の良心に反しながら誰かに背中を押してほしい場合だけだ。ぼくはただきみに話をしたかっただけなんだ」
「もうひとつだけ言わせて下さい。勝手なことを言ってごめんなさい──でも、わたしへの話し方には気を付けてほしいの。これから先後悔するかもしれないことは言わないで下さい。もしそんな時が来たら──6」
そう話しながらファニーの頬は赤く染まった。
「愛しいファニー!」エドマンドは声を上げて、熱っぽく彼女の手に唇を当てた。彼はまるでそれがミス・クロフォードの手だと思っているかのようだった。「きみはなんて思いやりがあるんだろう!──でもいまはその必要はない。そんなときは二度と来ないだろう。きみがほのめかしたようなことは決して起こらない。もうほとんどありえそうにないと思い始めてるよ。可能性はますます低くなっていくばかりだ。もし万が一そんな可能性があったとしても──ぼくやきみが思い出すのを恐れるようなことは何もない。なぜならぼくは自分の気のとがめを恥じてはいないからね。もしそのとがめが取り除かれることがあるとしたらそれはミス・クロフォードの変化によるものだし、かつての欠点を思い出すことで彼女の性格への評価が高まるだけだ。ぼくが自分の言ったことをありのまま言える相手は、この世にきみ一人だけだよ。だけど、彼女についてのぼくの意見はずっと知っていたよね。ファニー、ぼくは決して盲目にはなっていなかったときみなら証言してくれると思う。彼女のささやかな欠点について、ぼくらは何度話し合ったことか! ぼくのことを心配する必要はないよ。彼女へ真剣な思いを抱くのはもうほとんどあきらめかけてる。でもぼくの身にどんなことが起ころうと、きみの優しさや思いやりに心から感謝していなければ、ぼくは大ばか者にちがいないね」
彼の言葉は十八歳の少女の心を揺さぶるのに十分だったし、ファニーは最近では感じたことがないほどの幸福感を覚えることができた。さっきよりも明るい表情でファニーはこう答えた。
「ええ、エドマンド、他の人はどうか分からないけど、あなたはそんな人じゃないとわたしは信じています。あなたの話したいことなら何でも聞きますし、恐がってなどいません。どうか自分の気持ちを抑えないで。何でも話して下さいな」
ふたりはいまや三階に着いていたが、メイドが現れたのでそれ以上の会話はできなかった。ファニーのとりあえずの慰めとして、この話し合いはおそらく一番嬉しい瞬間に終わってくれた。もしさらに五分以上話せていたならば、彼はミス・クロフォードの欠点や彼自身の失望感について洗いざらい話してしまっていたかもしれないからだ。だが実際はそうならず、エドマンドは感謝を込めた愛情たっぷりの表情を浮かべ、ファニーのほうは尊い思いを胸に抱きながら、ふたりは別れた。ファニーはここ何時間もこんな気持ちを感じたことはなかった。クロフォード氏の手紙がウィリアムにもたらした最初の喜びが薄れてからというもの、ファニーは喜びとはほど遠い状態にいたからだ。周囲には何の慰めもなく、心には何の希望もなかった。でも今ではあらゆるものが微笑んでいた。ウィリアムの幸運がふたたび思い出されてきて、最初の時よりいっそう価値があるように思えた。舞踏会もそうだ──これから楽しい夜が目前に控えているのだ! これが本当に胸躍るということなんだ! ファニーは、舞踏会にはつきもののわくわくした幸せな気分で着替えを始めた。万事がうまくいっていた──自分のドレス姿もなかなか悪くないとファニーは思った。そしてふたたびネックレスをつけようとしたところ、ファニーの幸運は完璧なものになった──ミス・クロフォードからもらったネックレスを十字架の金具の穴に通そうとしたのだが、どうしても入らなかったのである。ファニーは、エドマンドの忠告に従ってそのネックレスをつけるつもりでいたのだが、大きすぎて穴に通せないのだ。それゆえ、エドマンドからもらったネックレスをつけなければならなかった。ファニーは嬉しさで胸がいっぱいになりながらその鎖と十字架を繋ぎ合わせると、この世で最愛の二人からの記念の品が──このうえなく大切な愛情の証が──実際の形としても概念の上でも、お互いにぴったりと結びついたように思われた。そのネックレスを首につけて、そこに込められたウィリアムとエドマンドの思いを目の当たりにして感じると、ファニーは「ミス・クロフォードのネックレスもつけよう」と苦もなく決心することができた。そうするのが正しいことだと思ったのだ。ミス・クロフォードにもその権利はある。もっと強力な権利──すなわちエドマンドの真心からの厚意──をもはや侵害されることも妨げられることもないので、ファニーは喜んで公平な気持ちにさえなれた。そのネックレスもとてもよく似合っていた。ようやくファニーは、自分自身にもすべてにも、すっかり心地よく満足した気分で部屋を出た。
ちょうどその頃、伯母のバートラム夫人はめずらしく頭がはっきりしていて、ファニーのことをふと思い出した。誰に促されたわけでもなく、舞踏会の準備をしているファニーのために着替えを手伝う者がメイドの他にもいたほうがよいだろう、と思いついたのだ。自分の着替えが済むと、バートラム夫人は自分の侍女をファニーのもとに行かせた。だがもちろん時すでに遅しで、何の役にも立たなかった。侍女のチャップマン夫人7がちょうど屋根裏部屋の階に着いたとき、ミス・プライスは完全に着替えを済ませた状態で部屋を出てきたところだったので、ただお互い礼儀正しい言葉を交わすしかなかった──それでもファニーは伯母の配慮をありがたく感じたし、バートラム夫人やチャップマン夫人のほうでも、自分たちの配慮は行き届いているとファニーとほとんど同じくらい感じ入っていたのだった。
注
- 当時は蝋燭が高価だったため、遅い時間(午後6~8時頃)にディナーを取るのが上流階級の証とされていた。
- 早馬で旅をする(traveling post)というのは、馬を各地の駅(大抵は地方の宿屋)で交換しながら旅を進めるということである。馬車自体は、自分で所有する物か借りた物を使用する(この場合はクロフォード氏所有のバルーシュだが、これは富裕層向けの馬車なので、ウィリアムは余計に嬉しかったのだろう)。約10マイルごとに元気な馬へと取り換えるので、疲れた馬を途中で休ませる必要がなく迅速に目的地へ辿り着くことができるが、非常に交通費が高くつく移動手段。長距離旅行にはしばしばこの駅伝方式が取られる。同じくこの方法で旅をする一般の乗合馬車(public coach)も存在していたが、地位の低い人々が利用するものだった。
- 戦況の速報をロンドンの海軍本部に伝えるために派遣される伝令のこと。戦勝報告をした伝令は褒賞として昇進することもあった。早馬で駆けるその華々しい姿にウィリアムはあこがれていたのだろう。
- 手紙を届けるための郵便馬車(mail coach)には、少数ながら旅客も同乗することができた。ロンドンと各地方都市の間には、郵便交通網が整備されており、配達のため夜通しで馬車が走っていた。乗合馬車よりも迅速に進むので料金は割高。ウィリアムの当初の予定では、ノーサンプトンからロンドンまでをこの郵便馬車に乗り、ロンドンからポーツマスまで乗合馬車で行くことになっていたのである。
- 女中頭(housekeeper)は家事や食事全般について指揮監督をする。女中頭は使用人の中でも最上位に位置するため、ノリス夫人にも堂々と反論できたのだろう。おそらく怠惰で無気力なバートラム夫人からは女中頭はめったに口を挟まれることがなかったので、ノリス夫人からやかましく文句を言われることに慣れていなかったのかもしれない。
- つまり、もし今後エドマンドがミス・クロフォードと結婚するようなことになれば、彼女を批判するような今の発言を後悔するかもしれないということ。
- 本文では筆者視点のため”Mrs.”が付いているが(未婚でも既婚でも関係なくMrs.)、ふつう上級使用人は主人からは姓のみで呼びかけられる。上級の使用人とは女中頭(housekeeper)、侍女(lady’s maid)、執事(butler)、従者(valet)である。