説得 第6章/マスグローヴ家の人々(後編)

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 アパークロスを訪れるまでもなく、アンには分かっていたことがあった。それはいわゆる『所変われば品変わる』で、たった三マイル離れるだけでも、会話の種や人の考え方というのはすっかり様変わりしてしまうということだ。アンはアパークロスに滞在するたびに、いつも驚きの念に打たれ、「お父さまやお姉さまにも知ってもらえたらいいのに」と願ってしまうことがあった。それは、『ケリンチ・ホールでは誰もが話題にして興味を持っている事柄が、ここではほとんど知られていないか、あるいはまったく関心を持たれていない』ということだ。だが、こうした経験にもかかわらず、アンは今またさらに別の教訓を学ぶ必要があると感じた。つまり、『人は自分の属する世界を出れば、取るに足らない存在なのだ』という教訓である。──当然ながらアンは、ここ数週間ケリンチ・ホールやケリンチ・ロッジでずっともちきりだった話題で心をいっぱいにしてやって来たので、マスグローヴ夫妻から多少の好奇心や同情を寄せられることを期待していた。しかしながらマスグローヴ夫妻は、それぞれ別々ではあったけれども、ごく似たような発言をしただけだった。──

「ねえミス・アン、それじゃ、サー・ウォルターとお姉さんはもう出発されたんですね。バースでは、どの辺にお住まいになるんでしょうね?」

 こう聞いておきながら、相手の返事など待ってはいなさそうだった。──するとヘンリエッタとルイーザが加わってきて、

「わたしたちも冬にはバースに行きたいわ! でもお父さま、どうせなら素敵な場所に泊まらなきゃだめよ。クイーン・スクエア1なんて絶対やめてね!」

 そしてさらに、メアリーが不安げにこう言った。

「あら! あなたたち全員がバースに行ってしまって楽しく過ごすことになったら、きっとわたしの体調はたいそう良くなるでしょうよ!」

 アンにできたのは、自分は将来このような独りよがりな思い込みはするまいと決意することだけだった。そして、ラッセル夫人のような、心からの共感を示してくれる友人に恵まれたという並外れた恩恵に、改めて感謝の念を抱いたのだった。

 マスグローヴ氏と息子のチャールズ・マスグローヴは、もっぱら狩猟にいそしみ、乗馬や犬の世話をしたり、新聞を読んだりして日々を過ごしていた。女性陣もまた、家事の切り盛りや隣人とのお付き合い、ドレス、舞踏会、音楽といった、その他ありふれたことに忙しくしていた。アンとしては、どんな小さな社交の集まりであっても、何について会話するかはその人たち自身が決めるのが当然だと思っていた。そして、この場所に身を寄せたからには、ぜひともみんなの役に立てる一員になりたいと願った。──アパークロスには少なくとも二か月は滞在することになるので、自分の想像や記憶や考えはできるだけ封印して、アパークロスに関する事柄で覆い隠さなければならないと感じた。

 これからの二ヶ月間については、アンは何の不安も抱いていなかった。メアリーはエリザベスほど嫌味でも姉妹愛に欠けているわけでもなく、アンの助言を一切受け付けないということもなかったからだ。アパークロス・コテージのその他の点についても、快適さを邪魔するものは何もなかった。アンはつねに、義理の弟であるチャールズ・マスグローヴと仲が良かった。そして子どもたちは、アンのことが母親と同じくらい大好きで、またアンのことを母親よりもずっと尊敬していた。アンにとって、子供たちは関心の対象であり、いろいろと楽しませてくれたり、健全な仕事を与えてくれる存在だった。

 チャールズ・マスグローヴは礼儀正しく感じの良い人物であり、分別や性格の面では、まちがいなく妻のメアリーより優れていた。しかし、「彼のプロポーズを断わらなければよかった」とあやうく後悔してしまうほどの才能や会話力、気品は持ち合わせていなかった。けれども同時に、「もっと対等な相手と結婚していたなら、彼ははるかに向上していただろう」とアンには信じられたし、ラッセル夫人も同意見だった。真の知性を備えた女性と結婚していたなら、彼の性格にさらに重みを与えられただろうし、日々の習慣や趣味をもっと有用で理性的で高尚なものにできただろう。

 しかし残念ながら、チャールズが熱中しているのは狩猟だけだった。それ以外の時間は、ためになるような読書などもせず、ただ無為に時を過ごしていた。また彼はたいへん陽気な性格であり、時々起こる妻の体調不良にもそれほど影響を受けないようで、メアリーの理不尽な言動にもたいていよく辛抱していたから、アンはときどき感嘆してしまうほどだった。ちょっとしたケンカみたいなものはしょっちゅうあったけれども(アンはどちらの側からも不満を訴えられるので、不本意ながらそうしたケンカに巻き込まれがちだった)、一応はまあ幸せな夫婦といえた。そんな二人も、もっと金が欲しいという点と、父親からもっと贈り物がもらえたらいいのにという点においてだけは、つねに意見が一致していた。とはいえここでも、大概の場合そうなのだが、チャールズのほうが一枚上手うわてだった。メアリーは、「ろくに贈り物もしてくれないなんてひどいわ」と不満に思っていた一方、チャールズのほうはいつも、「父さんは父さんなりの金の使い道があるんだから、自分の好きなように使う権利があるんだよ」と擁護していたのだ。

 子どもたちのしつけに関しても、彼の教育方針は妻よりずっとまともで、実際のやり方もそれほど悪くはなかった。──「メアリーが余計な口出しさえしなければ、ぼくだって結構上手く子どもたちの世話はやれるんだよ」とチャールズが言うのをアンはしばしば聞いていたし、かなりの程度それは真実だと信じられた。けれども、同じようにメアリーが、「チャールズが子どもたちを甘やかすせいで、わたしの手には負えなくなってるのよ」と愚痴るのを聞いても、「確かにそうね」と返事をする気にはまったくなれなかった。

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 アンがここに滞在して困ることは、みんなから頼りにされすぎてしまうことだった。そのせいで、両家の人たちから不平不満を打ち明けられすぎてしまうのだ。アンはメアリーに対していくらか影響力があると思われているので、何とかメアリーに忠告してもらえないかと絶えずお願いされたり、少なくともそういうほのめかしを受けたりしていたが、できるはずのない相談だった。

「お願いなんだが、いつも自分は病気だと思い込むのをやめるよう、メアリーにきみから言ってもらいたいんだ」というのがチャールズの言い分だった。一方のメアリーのほうは、不機嫌そうにこう言うのだった。

「チャールズは、もしわたしが死にかけているのを見ても、どこも具合は悪くないと思うんでしょうね。きっとそうよ、アン。ねぇわたし、本当に体調が悪いの、自分で言っているよりずっと悪いんだから。彼にそう伝えといてくれないかしら」

 またあるときのメアリーの主張はこうだ。

「坊やたちを本家に行かせるのは嫌なのよ。お義母さまはいつも会いたがっているけど、あの子たちがあそこに行くとすっごく甘やかされて、くだらない物やお菓子をたくさんもらうから、必ず具合が悪くなって帰って来るのよ。それで残りの日はずっとご機嫌斜めになってしまうの」

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 対してマスグローヴ夫人は、アンと二人っきりになれる機会をとらえると、すぐさまこう言った。

「ああ、ミス・アン! メアリーも、あなたの育児のやり方を少しくらい見習ってくれたらいいのに! あなたと一緒のときの坊やたちは、まるで別人のようですもの! でも本当のところ、普段は甘やかされ放題なんですよ! あなたがメアリーに、子どものしつけ方を伝授してくれればよいんですけれど。ひいき目なしに見ても、あの子たちはものすごく元気でいい子たちですのよ。かわいそうに! でもメアリーは子どもの扱い方をさっぱり心得ていませんの。困ったものだわ! ときどき、本当に手がかかってしょうがなくて。ねえミス・アン、じつを言うとね、坊やたちがあんな様子では、こちらに呼びたいという気も失せてしまうの。もっと頻繁に招待しないことをメアリーは不満に思っているようですけど。でもね、四六時中『あれはダメ、これはダメ』と注意し続けなきゃいけないような子どもたちと一緒に過ごすのは、心底骨が折れるものなのよ。それか、体に悪いと分かっていても、甘いお菓子をたくさんあげてご機嫌を取る以外、あの子たちをおとなしくさせる方法はないでしょう?」

 さらに、メアリーからはこんな愚痴も聞かされた。

「お義母さまは、自分のところの使用人はみんな真面目だと思い込んでいて、何か文句を言うなんてとんでもないと思っていらっしゃるのよ。でもね、大げさじゃなく、あそこのメイドと洗濯女中ときたら、仕事そっちのけで一日じゅう村をほっつき歩いているわ。どこへ行ってもあの子たちに出くわすんですもの。断言するけど、うちの子供部屋に行くと、二回に一回はあの子たちがサボりに来てるのを見かけるわ。うちのジェマイマ2が信頼できるしっかりした子だからよかったようなものの、そうじゃなかったら、彼女まで悪影響を受けてたところよ。だってジェマイマによると、あの二人はいつも『一緒に遊びに出かけましょう』って誘ってくるらしいわ」

 そして、マスグローヴ夫人側の言い分はこうだ。

「わたしはね、嫁のすることには一切口出ししないと決めているんですよ。そんなことをしても上手くいかないと分かっていますからね。だけどアンさん、あなたにはお話ししておきましょう。あなたなら上手に取りなしてくれるかもしれませんから。じつは、チャールズの嫁のところの子守係については、あまり感心しておりませんの。妙な噂も耳にしますのよ、あの子守係はいつも遊び歩いてばかりだって。それにわたしの見たところ、あんなお洒落に着飾ってるようでは、周りの使用人たちまで堕落してしまうわ。メアリーは彼女をすっかり信じ切っているようですけれど、あなたには一言お伝えしておきます。どうか気をつけて見てやってくださいな。もし何かおかしなことに気づいたら、遠慮せずに指摘してやってかまいませんからね」

 またあるときには、メアリーがこんな不満を漏らしていた。本家で他の家族と一緒にディナーを取るとき、先頭に立って部屋を出入りするのは序列的に自分であるべきなのに、マスグローヴ夫人が譲ってくれない、というのだ。自分はマスグローヴ家の身内同然と思われているけれども、だからといって准男爵の娘という立場を失わなければいけない理由なんてない、とメアリーは主張するのだった。

 またある日、アンがマスグローヴ家の娘たちと散歩をしていたときのことだ。姉妹の一人が、身分や上流階級の人々のこと、高い地位への嫉妬について語ったあと、こう言った。

「あなたには遠慮なくお話ししてしまいますけれど、自分の地位にこだわる人なんて、本当にばかげてるわ。あなた自身はそういったことを全然気にしてないし、無頓着だってこと、みんな知ってますものね。でもどなたかメアリーお義姉さまにそれとなく言ってほしいわ、『そんなに片意地を張らないほうが、ずっと感じが良いですよ』って。特に、うちのお母さまを差し置いてまでつねに先頭に立とうとするのは、どうかと思うの。もちろん、メアリーのほうがお母さまより序列が上なのは分かってるわ。准男爵のお嬢さまですもの。でも、それをいちいち主張しないほうが、嫁の立場としてはふさわしいでしょう? お母さま自身はそんなこと微塵も気にしていないけれど、周りの方々が気づいてるのは、わたしも知ってるのよ」

 これらすべての問題を、一体どうやってアンが解決することができただろう? アンにできたことといえば、せいぜい辛抱強く聞き役に徹して、みんなの不満をなだめつつ、双方の言い分をフォローしてやることぐらいだった。ご近所同士うまくやるには忍耐が必要なんですよ、とみんなにそれとなく説き、なかでも妹のメアリーに対しては、本人のためを思って一番はっきりとした言葉で伝えたのだった。

 その他の点ではすべて、アンの滞在はたいへん順調に進んでいった。場所も興味の対象も変わり、ケリンチから三マイル離れたことで、アン自身の気分も良くなっていった。メアリーも、つねに話し相手がいるおかげで、以前よりも体調不良になることが減った。本家の人たちと毎日交流するのは、むしろ好都合といえた。なぜならメアリー夫妻の家には、家族水入らずで過ごしたいと思うほどの特別な愛情や親密さも、やるべき事も特になかったからだ。両家のお付き合いは確かにこれ以上ないほど頻繁なもので、毎朝のように顔を合わせ、別々に夜を過ごすこともめったになかった。でもアンが思うに、この交流がうまくいっているのは、マスグローヴ夫妻がいつもおなじみの場所でどっしり構えている立派な姿や、マスグローヴ姉妹たちのにぎやかなお喋りや笑い声、歌声のおかげなのだろう。

 アンのピアノの腕前は、ヘンリエッタやルイーザのどちらよりもはるかに優れていた。しかしアンは歌を歌うことはできず、ハープの知識もなかったし、そばで喜んで演奏に耳を傾けてくれる愛情深い両親もいなかった。アン自身、自分の演奏はほとんど注目されておらず、ピアノを弾くよう頼まれたとしても、ただの社交辞令か、場の雰囲気を変えるためだけにお願いされているのだとよく分かっていた。ピアノを演奏するのは、ただの自己満足に過ぎないのだと自覚していた。だが、そう感じるのは今に始まったことではなかった。十四歳の時に最愛の母を亡くして以来、人生のなかのごくわずかなある期間を除いて、アンは演奏を聴いてもらえる幸せを味わったこともなく、正しい審美眼や真の趣味の良さをもった人から励ましてもらったことなどなかったのだ。音楽に関しては、アンはいつもこの世で自分一人だけのような孤独感を感じていた。だから、マスグローヴ夫妻が自分の娘たちの歌声や演奏ばかりえこひいきして、他の人の演奏にまったく無関心だからといっても、アンはあまりつらい気持ちにはならず、むしろ夫妻のために喜ばしく思う気持ちのほうがずっと大きかった。

 本家の集まりには、ときどき他のお客さんが加わることもあった。この辺りの社交界はさほど広くはないのだが、マスグローヴ家は他のどの家よりも訪問客が多く、頻繁にディナーパーティーをひらき、招待を受けた客からふらりと立ち寄る客まで、誰かしら訪ねてくるのだった。マスグローヴ家は、圧倒的に人望を集めている一家であった。

 ヘンリエッタとルイーザはダンスが大好きで、ときには、晩の集まりが思いがけず小さな舞踏会になり、そのままお開きとなるということもあった。アパークロスから徒歩圏内のところには、マスグローヴ家の親戚が住んでいた。その一家はあまり裕福ではなく、娯楽はすべてマスグローヴ家に頼っていた。そしていつでも訪問してきて、どんな遊びにも参加し、どこでもダンスに興じた。アンとしては、踊るよりも伴奏する役のほうがずっとよかったので、みんなのためにカントリーダンスの曲を何時間も立て続けに弾いてやるのだった。マスグローヴ夫妻がアンの音楽的才能に注目するのは、いつもそういった親切さが発揮されているときだけであって、しばしばこんな褒め言葉をかけられるのだった。

「お見事ですね、ミス・アン! じつにすばらしい! こりゃ驚いた! あなたの指さばきといったら、まるで鍵盤を飛びまわるかのようですな!」

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 こんな調子で最初の三週間は過ぎていき、ミカエルマスを迎えた。いまやアンの心はふたたびケリンチに戻っていた。愛するわが家が、ついに他人の手に渡ってしまうのだ。あの大切な部屋や家具も、木立も、あの景色も、他の人の目や手足を楽しませることになるのだ! 九月二十九日には、アンはそれ以外のことはほとんど考えられなくなった。そしてその日の晩になると、たまたま日付を書き留めようとしていたメアリーから、アンはこんな共感あふれる言葉をかけてもらえた。

「あら! 今日って、ケリンチ・ホールにクロフト提督夫妻が引っ越してくる日じゃなかった? 今まで気付かなくてよかったわ。すっごく気が滅入っちゃうもの!」

 クロフト一家は海軍軍人らしい機敏さでケリンチ・ホールに越してきて、隣人たちからの訪問を待った。メアリーは、この自分が挨拶に行かなければならないなんて、と嘆いた。

「わたしがどれだけ苦しんでいるか、誰も分かってくれないの。訪問はできるだけ引き延ばすつもりよ」

 だがメアリーはそわそわと落ち着かず、チャールズをせっついて早々に馬車を出させたあげく、帰宅すると、自分がどれほど動揺したかをいきいきと心地よさそうに語る始末だった。一方のアンは、自分にはケリンチ・ホールまで行く手段がないことを心からありがたく思った3。けれども、クロフト夫妻には一目会ってみたいと願っていたから、夫妻が返礼に来た際に、ちょうど在宅していてよかったと思った。クロフト提督夫妻がアパークロス・コテッジを訪れると、主人のチャールズは不在だったものの、アンとメアリーの二人がいた。提督はメアリーのそばに座り、子どもたちにも上機嫌に声をかけてあげていて、たいへん感じがよかった。その間、クロフト夫人のお相手は、図らずもアンがつとめることとなった。おかげでアンは、クロフト夫人の顔立ちにかつての恋人の面影がないかをじっくり観察することができた。たとえ顔立ちに似たところがなくても、声の響き、あるいはふとしたときの感情の表し方や言葉遣いに、共通点はないかと見いだそうとしたのである。

 クロフト夫人は身長が高いわけでも太っているわけでもなかったが、体つきはがっしりとして姿勢がよく、活力にあふれており、そのおかげで堂々とした印象だった。瞳は黒く輝き、歯並びも美しく、全体的には感じの良い顔立ちをしていた。ただ、夫とほぼ同じ期間の海上生活を送ってきたせいか、日に焼けて赤みがかった肌色をしていたので、三十八歳という実年齢よりも数歳上に見えるのだった。夫人の態度は気さくで飾り気がなく、きっぱりとした感じで、自信に満ちあふれ、自分の行動にも迷いがないといったふうだった。かといって、粗野だとか無愛想というわけでは決してなく、ケリンチ・ホールに関するあらゆる事柄についてもこちらの気持ちをたいへん気遣ってくれたので、アンは夫人に敬意を覚えると同時に嬉しく思った。とりわけ喜ばしかったのは、クロフト夫人のほうでは、アンの過去について何か先入観を抱くようなことを知っている気配も、疑念を持っている徴候も一切なかったことだ。そのため、紹介を受けてすぐの時点で、アンはほっと胸をなで下ろしたのだった。その点についてすっかり安心しきって、だんだんと気力と勇気を取り戻していたのだが、クロフト夫人がだしぬけに口にした言葉に、アンは一瞬衝撃で固まってしまった。

「どうやら、わたしの弟がこの地方にいるときにお近づきになった方というのは、あなたなのですね。あなたの妹さんではなく」

 アンは、自分はもう顔を赤らめるような年頃をとうの昔に過ぎていると思いたかったが、感情の揺れ動く年頃はまだ過ぎてはいなかった。

「たぶんまだご存じないでしょうね、彼が結婚したことは」

 アンは、何とかその場にふさわしい返事をすることができた。しかしクロフト夫人の次に続く言葉から、夫人は兄のウェントワース師のことを言っているのだと分かり、どちらともとれる返事をしていてよかったと内心安堵した。そしてすぐに、クロフト夫人が弟のフレデリックではなく兄のエドワードのことを話題にするのも当然だと感じた。エドワード・ウェントワース師はこの地方に住んでいたからだ。アンはそのことを忘れていた自分に恥じ入り、かつての隣人の近況についてしかるべき関心を持って集中しようと努めた。

 その後は穏やかな時間が流れたが、二人がいざ立ち上がろうとしたとき、提督がメアリーにこう話しかけるのがアンの耳に入ってきた。

「もうすぐ、妻の弟がこちらに訪問してくることになっているんですよ。きっとお名前はご存じかと思いますが」

だがそのとき、クロフト提督は言葉をさえぎられた。子どもたちがすごい勢いで飛びついてきて、まるで昔からの知り合いかのように、「行っちゃだめ!」としがみついてきたからだ。提督は、「それならコートのポケットに入れて連れて帰ってあげようか」などと冗談を言って、子どもたちの相手をすることに気を取られてしまい、さっき話しかけていたことを忘れてしまった。

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あとに残されたアンは、「さっき提督が話していたのは兄のエドワードさんのことのはずよ」と自分に言い聞かせるのが精一杯だった。だがどうしても確信が持てず、「クロフト提督夫妻が本家のほうに訪問したとき、その件について何か触れられたのかしら……」と、気になって仕方がなかったのだった。

 この日、本家の人たちはアパークロス・コテージで晩を過ごすことになっていた。歩いて訪問するには遅すぎる時間だったので4、そろそろ馬車の音が聞こえてくる頃だと思っていたところ、ルイーザ・マスグローヴが徒歩でやってきた。「急にキャンセルすると謝りに来たのではないか。今夜は自分たちだけで過ごさねばならないのでは」という不吉な予感が真っ先に浮かび、メアリーは今にも憤慨する気満々だった。しかし、ルイーザの言葉ですべて丸く収まった。彼女が歩いてきたのはただ、馬車でハープを積むスペースを空けるためなのだそうだ。

「何もかもわけを話すわ」とルイーザは言った。「じつは今夜お父さまとお母さまの元気がないってことを、お知らせに来たのよ。特にお母さまが落ち込んでいるんだけど、亡くなったリチャードのことをしきりに思い出しているの! だからハープを持ってくることにしたのよ。そのほうがピアノよりもお母さまの心を慰めてくれそうだったから。なぜ落ち込んでしまってるかも話すわね。今朝、クロフト提督夫妻がアパークロスを訪問してくださったとき(ご夫妻はその後こちらにも挨拶にいらしたのよね?)、たまたま夫人の弟さんであるウェントワース大佐のことが話題に上ったの。大佐はちょうど休暇か何かでイギリスに戻られる予定で、まっすぐご夫妻に会いに来られるらしいの。ところがあいにくなことに、ご夫妻が帰ったあと、お母さまがふと思い出したのよ。たしか『ウェントワース』かそれっぽい名前が、死んだリチャードが一時期乗船してた艦長の名前だったんじゃないかって。それがいつだかどこだかも分からないけれど、あの子が亡くなるずっと前のことよ。かわいそうに! それでリチャードの手紙や遺品を確かめてみると、たしかにそのとおりだったと分かったの。お母さまは、大佐がその人にちがいないと信じきっていて、いまはリチャードのことで頭がいっぱいなの。だから今夜は、お母さまが暗いことばかり考えずに済むように、できるだけ陽気に過ごしましょう」

 この悲しい家族の思い出の真相は、つまりこういうことである。不幸なことに、マスグローヴ家にはたいへんな厄介者で救いようのない息子がいたのだが、一家にとって幸いなことに、彼は二十歳になる前に死んでくれた。彼が海へと送り出されたのも、あまりにもばかで、陸の上では手に負えなかったからだった。家族からはほとんど気にかけられない存在だったが、それも自業自得だった。消息を聞くこともめったになく、二年前、外国で亡くなったという知らせがはるばるアッパークロスまで届いたときも、彼の死を嘆き悲しむ者は誰もいなかったのである。

 マスグローヴ姉妹は、今では彼を「かわいそうなリチャード」と呼び、できるかぎりの思いやりを見せてはいるけれども、実のところ、彼は生きている間も死んだ後も、ばかで、思いやりのない、役立たずの「ディック・マスグローヴ」に過ぎなかった。本名の「リチャード」を名乗るのにふさわしい立派なことなど何一つしたことがなく、せいぜい愛称の「ディック」と呼ばれるのが関の山だった。

 ディックは数年間海に出ていたが、すべての海軍士官候補生が経験するように、何度か転属を繰り返していた。とりわけ、どの艦長からも厄介払いしたいと思われるような士官候補生が転属を経験しがちだった。そんなときにディックは、フレデリック・ウェントワース艦長のフリゲート艦「ラコニア号」に半年間乗船することになった。当時ディックはこの船上で、ウェントワース艦長に感化されて二通の手紙を書いたことがあった。息子が実家を離れてから、マスグローヴ夫妻が彼から受け取った純粋に私欲のない手紙は、その二通だけであった。つまり、それ以外の手紙はすべて金の無心だったのである。

 どの手紙でも、ディックはウェントワース艦長のことを褒めちぎっていた。けれども、マスグローヴ家の人たちは普段からそんな事をほとんど気にかけなかったし、海軍士官や船の名前にも疎くて興味もなかったので、当時はまったくと言っていいほど印象に残らなかった。だから、マスグローヴ夫人がこの日突然、息子に結びつけてウェントワースという名前を思い出したのは、いわば「驚異的なひらめき」のようだった。こういったことは、ときたま起こるものなのだ。

 マスグローヴ夫人がさっそく手紙を探してみると、やはり思ったとおりだった。気の毒な息子がなくなってこんなにも時間が経ち、その欠点もいまでは全部忘れられてしまったため、手紙を再度読み返してみたことで、夫人はひどく気分が落ち込んでしまった。最初に息子の死を聞いたときよりも、さらに深い悲嘆に暮れてしまったくらいだった。父親のマスグローヴ氏も、夫人ほどではなかったけれども、同じように気落ちしていた。マスグローヴ夫妻がコテージに到着すると、二人が望んでいることはすぐに分かった。まず、この件についてあらためて誰かにじっくりと話を聞いてもらうこと。そしてその後は、陽気な若者たちにできるかぎり悲しみを和らげてもらうことだった。

 こんなにもウェントワース大佐のことで話が持ちきりとなり、彼の名前が何度も繰り返され、数年前の記憶にみんなが頭を悩ませ、ああだこうだと言い合うのを聞かねばならないなんて。そしてついには──「ほら、たぶんそうよ、絶対あの人だわ!」「ああ、クリフトン5から戻った後に一度か二度お会いした、あのウェントワース大佐にちがいない」「とっても素敵な若者だったわね。あれって七年前? それとも八年前だったかしら? はっきりしないわ」──そういったことを耳にするのは、アンの精神力にとって、新たな試練だった。けれども、今後はこのような試練に慣れねばならないのだ。彼がじっさいこの地方にやって来るからには、こうした出来事にいちいち動じたりしないよう、心を無にしなければならない。彼がこの土地を訪れることが判明したが、それだけでなく、マスグローヴ家の人たちは彼の到着を聞きつけたらすぐにでも挨拶をしに行って、ぜひお付き合いを始めようと決意しているようだった。一家は、ウェントワース大佐が気の毒なディックに示してくれた親切に心から感謝し、その人柄も非常に高く評価していた。何しろ、大佐は可哀想なディックのことを半年間も世話してくれたし、ディック自身が手紙の中で大佐を褒めていたからだ。その手紙には、あまり完璧とは言えないつづりで、「すごくりっぱでかっこいいひとです。ただ受業じゅぎょうの先生についてはちっょとやかましいですが6」と力強い賞賛の言葉が書かれていた。

 こうしてみんなはウェントワース大佐に挨拶することに決めたので、残りの晩はくつろいだ雰囲気で過ごすことができた。

 

  1. クイーン・スクエアはバースで最も有名な場所の一つ。1730年代に整備され、周囲の壮麗な邸宅には当初、裕福で地位の高い人々が住んでいた。しかしバースが北と東に拡大するにつれて、中心地がだんだんと旧市街から離れていき、さらに壮麗な建築様式を持つ新しい地域が最もファッショナブルな場所となっていった。流行に敏感なマスグローヴ姉妹はこの傾向を感じ取っている。
    ちなみに、1799年にジェイン・オースティンが家族と六週間バースを訪れた際、このクイーン・スクエアに滞在したことがある(1799年5月~6月)。
    また、マスグローヴ姉妹と両親と意見が対立するこの場面は、ジェイン自身の経験によるものかもしれない。というのも、後にオースティン一家がバースに引っ越さなければならなくなった際、同じような状況になったことがあるのである。オースティンの手紙に、「私もローラ・プレイス周辺に住みたいと願っているのだけれど、期待はしていません。お母さまはあのスクエア[クイーン・スクエア]をひどく恋しがっているし、伯父さま[オースティン夫人の兄ジェイムズ・リー=ペロー]はお母さまに味方するでしょう。シドニー・ガーデンズの近くだと素敵でしょうにね」という記述がある(Letters of Jane Austen, 1801年1月21日)。(参考:Jane Austen, Persuaion, Oxford University Press, 2003.)バース 地図 ジェイン・オースティン 説得
  2. ジェマイマは子守係(nursery maid)。下級使用人のため、下の名前で呼ばれる。
  3. メアリー夫妻の家にはカリクル(2人乗りの二頭立て二輪馬車)しかないため。
    カリクル 馬車
  4. 小説内の季節は十月である。
  5. クリフトンは、ブリストルに隣接する小さな街。十八世紀には人気の温泉保養地だった。『ノーサンガー・アビー』では、主人公のキャサリンが、ソープ兄妹に半ば強引にクリフトンに日帰り旅行に連れて行かれる描写がある。ジェイン・オースティンもごく短期間この地に滞在したことがある。(参考:Jane Austen, David M. Shapard, The Annotated Persuasion, Anchor, 2017. )説得 クリフトン ジェイン・オースティン ジェーン・オースティン
  6. 海軍では、士官候補生たち(そのほとんどは十代の少年たち)に対して操船術や航海術などを教育するため、船上勤務の教師による指導が規定されていた。しかし実際には、教師が配属されている艦船は少なく、士官候補生たちにどの程度の教育を施すかは艦長の裁量に任されていた。時には従軍牧師がその役目を引き受けることもあれば、艦長自らが教育にあたることもあった。明らかにウェントワース大佐は、士官候補生への教育に熱心だったのだろう。(参考:Jane Austen, David M. Shapard, The Annotated Persuasion, Anchor, 2017. )
    なお、スペルミスだらけの手紙の原文は以下の通り。“a fine dashing felow, only two perticular about the school-master,”(正しくは“a fine dashing fellow, only too particular about the school-master”)

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