ジョージ4世の人生~摂政時代を築いた男~

ジョージ4世 皇太子ジョージ 摂政皇太子 摂政時代 ジェイン・オースティン関連

はじめに

皇太子ジョージ(のちの摂政皇太子、および国王ジョージ4世)は、その不品行と常軌を逸した浪費癖、王妃との離婚スキャンダル、歴代政権との軋轢など数多くの問題を惹き起こし、国民からも嫌われ、王室の評判を悪化させた国王として悪名高い人物です。
その一方で、卓越した審美眼によって摂政時代の美術や文芸を振興し、都市改造や建築物の造営を行なって多くの文化遺産を残したことでも有名です。
この記事では、彼の生涯についてご紹介しましょう。

ジョージ4世 摂政皇太子ジョージ 摂政時代

ナショナルポートレートギャラリーにて撮影

 

 

出生から思春期まで

ジョージは、1762年8月12日、セント・ジェイムズ宮殿内のバッキンガム・ハウス(のちのバッキンガム宮殿)で、父ジョージ3世と母シャーロット王妃との間に長男として誕生しました。

ジョージ3世

父ジョージ3世

次期国王として将来を嘱望された皇太子ジョージは、9歳頃から厳格な父のもとで帝王教育を受けました。朝7時から15時まで数々の勉強や習い事を厳しく叩きこまれ、行儀作法や勉強の出来が悪いと父から折檻されることもあったそうです。
しかしそのおかげで、ギリシャ語ラテン語の古典から、フランス語イタリア語ドイツ語など多岐にわたる言語にも精通するようになり、シェイクスピアなどの英文学、絵画・彫刻・建築などの芸術にも造詣が深くなりました。
ピアノやチェロの演奏にも優れ、その腕前はかの巨匠ハイドンからも「お世辞抜きで」絶賛されたほどです。
のちに「ヨーロッパ一の紳士」と呼ばれるほどの優雅な振舞いや教養、機知に富んだ話術は、この幼少期の教育の賜物たまものでありました。

一方で、皇太子は思春期を迎えた頃から、実直で謹厳な父王とは反りが合わなくなっていき、反発するかのように快楽を追い求めるようになります。
弟たちのように軍隊への入隊を父から認められず、日々手持ち無沙汰だったことも皇太子を放蕩に駆りたてた一因のようです。

 

悪友フォックス

「類は友を呼ぶ」もので、放蕩者の皇太子の周りには、同じく自堕落な道楽仲間が集まるようになりました。
中でも有名なのが13歳年上の政治家チャールズ・ジェイムズ・フォックスです。19歳という若さで下院議員に当選し、早くから議会内で頭角を現したホイッグの大物です。

チャールズ・ジェイムズ・フォックス

フォックスは初代ホランド男爵の三男として生まれ、イートン校からオックスフォード大学に進んだ典型的な上流階級のエリートでした。
しかし私生活は乱れ、酒癖も女癖も悪く、ギャンブルにのめり込んでいました(12万ポンド(約12億円以上)もの借金を父男爵に肩代わりしてもらったことも…!)。
皇太子はこの年上の友人と親密に交遊し、フォックスが外相を務めていた際には年6万ポンド(約6億円以上)の歳費支給や、新たな皇太子邸カールトン・ハウスを議会から授けられたりと、様々な便宜を図ってもらっていました。

カールトン・ハウス carlton house

1809年頃のカールトン・ハウス

 

ファッションのお手本ボー・ブランメル

皇太子自身も洒落者として名をはせていましたが、当時最高の伊達男と言われた「ボー・ブランメル(Beau Brummel)」は、皇太子の取り巻きの友人兼ファッションの指南役でもありました。
皇太子はブランメルのスタイルを真似て、最先端の流行服や装飾品にも散財していきます。
ボーブランメル 皇太子ジョージ

 

派手な女性遍歴

恋多き多感な皇太子は、十代半ばから次々と女性経験と情事を重ねていきます。
母親からの優しい愛情に飢えていたためか、そのほとんどが自分より年上の女性でした。

ジョージ4世 摂政皇太子ジョージ

18歳の皇太子ジョージ

 

①初恋は16歳の頃で、皇太子の弟妹たちの教育係をしていたスコットランドの名門ハミルトン公爵家のメアリ嬢に一目ぼれ。百通以上ものラブレターを送り続けたものの、7歳上で慎み深いメアリ嬢はあくまで友情を望んだため、失恋。
メアリ・ハミルトン

 

②メアリ嬢との文通を交わしている最中、ドルーリー・レーン劇場で『冬物語』を観劇した17歳の皇太子は、出演していた売れっ子女優メアリ・ロビンソン夫人に熱を上げ、また恋文を送りまくる。皇太子の最初の愛人。

メアリ・ロビンソン 女優

メアリ・ロビンソン ジョージ4 皇太子ジョージ

皇太子がメアリ・ロビンソンに一目惚れした時に①メアリ・ハミルトン嬢に送った手紙。「彼女はいまだかつて見た中で最も美しい女性でした。その演技はきわめて繊細で、ぼくは思わず涙したほどです。彼女は、舞台上だけでなく舞台を降りてからも、ぼくがどれだけ心奪われているか気付いたようです。そして、あの手この手でぼくのハートを捉えようとし続けたのですが、…(中略)…彼女は見事にやり遂げました。彼女の名前はロビンソンです…」

皇太子は、自分がやがて相応しい年齢になれば2万ポンドを贈ると約束し、メアリは女優をやめて皇太子の愛人になることを承諾しました。
しかし皇太子は数か月でメアリに飽きてしまい、別の女性(③のエリオット夫人)に気持ちが移ったため別れようとしましたが、この「食わせ者」の女優との別れ話は容易ではありませんでした。
代理人を立てて交渉の末、最終的には5000ポンドの慰謝料と500ポンドの年金をメアリに終生支払うことで合意となりました。
その金を工面したのが父王ジョージ3世であり、国王はそのためにノース首相に資金調達を頼み込む羽目にまでなってしまいました。
メアリはその後、皇太子の悪友であるフォックスともしばらく付き合ったそうです。

 

③メアリ・ロビンソンの次は、オルレアン公の愛妾にもなったグレース・エリオット夫人と深い関係となります。
1782年(皇太子20歳)には、私生児の女の子まで誕生させました。
グレース・エリオット夫人

 

④エリオット夫人に飽きた後は初代メルバーン子爵夫人エリザベスと不倫関係になります。彼女は、かのヴィクトリア女王即位時に首相を務めた第2代メルバーン子爵の母親です。
その弟ジョージは、皇太子との間にできた子どもではないかと囁かれました。

初代メルバーン子爵夫人エリザベス

 

⑤次の恋の相手は、ハノーヴァー大使として訪英していたハルデンべルグ公爵夫人レヴェントロウで、また不倫関係に陥ります。
憤った夫のハルデンベルグ公爵は妻と皇太子に対して絶縁状まで送り、このスキャンダルが国王の耳にも入ったので、公爵夫妻はハノーヴァーに送還されることとなり二人の関係も終わりました。

 

 

「最愛の妻」フィッツハーバート夫人との秘密結婚

カールトン・ハウスに居を構えてまもなく、22歳の皇太子ジョージは成熟した気品と美貌を備えた女性、マリア・フィッツハーバート夫人と出会います。

マライア・フィッツハーバート夫人

当時フィッツハーバート夫人は皇太子より6歳年上の28歳のカトリック教徒で、すでに二度の結婚歴があり、二度とも夫と死別している寡婦でした。
皇太子は彼女にいままでの女性とは異なる魅力を感じ、たちまち夢中となります。(たしかに魅力的な女性であったようで、のちにジョージの正妻になったキャロラインですら「本当に素晴らしい人、縁が切れたのは皇太子にとってお気の毒」と言っていた)
ただ誇り高きフィッツハーバート夫人は、日陰者の愛人ではなく正式な結婚を望んでおり、カトリックの自分が皇太子と結婚できるとは全く考えていなかったようです。

しかし皇太子は幾度もの懇願、自殺未遂、泣き落としの末、フィッツハーバート夫人と結婚の約束を取り付けることに成功し、その後夫婦となる宣誓を交わしました。

❝1784年のある朝、パーク・ストリートの居宅の前に大型馬車が止まり、皇太子の側近4人が降りて来て、フィッツハーバート夫人に急用があると告げた。いわく、皇太子が短刀で自らを斬りつけて自殺を図り、生命が危険な状態にある、皇太子の命を救えるのは貴女しかいない、と。明らかに罠と思った彼女は、彼らのしつこい懇請に対し断固とした態度で断った。だが結局折れて、誰か身分の高い女性と一緒ならば行ってもよいと答えた。その女性にはデボンシャー公爵夫人が選ばれ、夫人は4人とともに、同意した公爵夫人を拾ってカールトン・ハウスへ入った。皇太子の顔面は蒼白にみえ、血にまみれており、傍らに自らを傷つけた短刀が転がっていた。この光景に夫人は衝撃を受け、正常な意識を半ば失ってしまった。こうして皇太子の思うつぼとなり、「自分の妻になるとあなたが約束してくれなければ自分はもう生きていけない」と訴えると、動転していた夫人はその約束を与え、黙って指に指輪を受け入れた…❞

とても一国の皇太子どころかまともな大人の男性とは思えない振る舞いですが…
賢明なフィッツハーバート夫人は一夜考えた末、一時イギリスを離れる決心をし、皇太子の手紙を携えた使者に後を追いかけられながらも1年ほど大陸を放浪しますが、結局皇太子と結婚する覚悟を決めて帰国します。
そして1785年、皇太子は金とポストで釣った聖職者に婚礼の司式を依頼し、二人はパーク・ストリートの夫人邸で密かに挙式をしました。

けれども、当時23歳だった皇太子は2つの法を同時に犯していました。
(1)1701年の「王位継承法」により、王族はカトリック教徒と結婚できない
(2)1772年、父ジョージ3世により「王族婚姻法」が制定され、25歳未満の王族が結婚する場合には国王の許可が必要だった

やがてこの「結婚」は国王の知るところとなり、極秘裏に無効とされましたが、皇太子は彼女を「最愛の妻」と呼び、二人の関係は公然の秘密として約20年続くことになります。
(皇太子とキャロラインとの正式な結婚や、彼の浮気の数々により、断続的な中断もありましたが)。

George IV as Prince of Wales ジョージ4世 摂政皇太子ジョージ

George IV as Prince of Wales by John Hoppner (1792) © The Wallace Collection

 

 

公女キャロラインとの結婚~相性最悪の二人~

 

皇太子の浪費と贅沢趣味

皇太子ジョージは現代でいう買い物中毒のような人物だったようで、
少しでも興味を持ったものは、たとえそれが全く必要のない物だろうが、いくら借金がかさんでいようが、つけで買いまくっていました。
例えば10年間で500枚以上のシャツを買い、300本以上の狩猟用の鞭や杖、500枚以上の札入れを所有していたといいます。
高価な指輪やメダル、装飾品を衝動買いし、友人知人に贈ったりもしていました。

成人した21歳頃からは、とりわけ新居カールトン・ハウスの増築・改装に熱中し、はてしなく続く改修工事や豪華な調度品の購入で、ますます借金が膨らんでいきました。

カールトン・ハウスは元々、祖母(ジョージ3世の母)の屋敷でした。
折しも改装作業中にフランス革命が勃発し、それまでブルボン王家の宮廷や貴族の屋敷で仕えていた家具職人や細工職人の多くがイギリスに亡命してきたため、内装も彼らに委ねられることになりました。
マリー・アントワネットの室内装飾を手掛けたダゲールが総監督を務めており、彼が共和国政府と交渉の末国外に持ち出すことに成功したルイ14世やルイ15世秘蔵の豪奢な家具が、カールトン・ハウスに続々と運び込まれたそうです。

カールトン・ハウス

The Hall of Entrance, Carlton House, from The History of the Royal Residencesby WH Pyne (1819)

Grand Staircase, Carlton House, from Ackermann’s Repository (1812)

華麗な意匠が施されたグランド・ステアケース(大階段)。
横からの図。↓

カールトン・ハウス大階段

Grand Staircase, Carlton House, from The Royal Collection Trust

カールトン・ハウス

Crimson Drawing Room, Carlton House, from The History of the Royal Residences by WH Pyne (1819)

各間に掲げられた豪華なシャンデリアの数々。
壁には皇太子の慧眼によって集められた絵画が飾られ、ジョシュア・レイノルズやトマス・ゲインズバラなど、当代一流のイギリス人画家たちの作品が数多く買い上げられました。

カールトン・ハウス

Ante Chamber leading to the Throne Room, Carlton House, from The History of the Royal Residences by WH Pyne (1819)

また、皇太子はネーデルラント絵画の傑作も蒐集しており、ヴァン・ダイク、ルーベンス、レンブラントなどの名作もカールトン・ハウスの壁に所狭しと飾られました。
ヤン・ファン・エイクの名画『アルノルフィーニ夫妻の肖像』もその一つで、現在でもナショナル・ギャラリーの目玉となっています。

皇太子ジョージ アルノルフィーニ夫妻の肖像

カールトン・ハウス

Throne Room, Carlton House, from The History of the Royal Residences by WH Pyne (1819)

カールトン・ハウス

Blue Velvet Room, Carlton House, from The History of the Royal Residences by WH Pyne (1819)

カールトン・ハウス

The Vestibule, Carlton House, from The History of the Royal Residences by WH Pyne (1819)

ちなみに、このカールトン・ハウスに、ジェイン・オースティンも1815年11月に招かれて訪れたことがあります。
兄ヘンリーの担当医が皇太子の侍医も務めており、ちょうどオースティンがロンドンにいることを皇太子に告げたため、招待されたのです。
文学好きで、オースティンの小説の熱心な愛読者でもあった皇太子は、その時点で出版されていたすべての作品(つまり『分別と多感』『高慢と偏見』『マンスフィールド・パーク』)を読んでいたそうで、次に出版する『エマ』についても皇太子へ捧げることを許可されました。
当日、皇太子本人は不在だったものの、オースティンは図書係のクラーク氏に丁重に迎えられ、カールトン・ハウス内を案内されたとのこと。
残念ながらこの時のオースティン自身の感想は残されていません。

1811年にカールトン・ハウスで開かれた、200人もの賓客が招待された摂政就任祝いの大規模な饗宴では、魚の流れる人工の小川や銀の橋が作られ、一晩で12万ポンドも費やされたといいます。
なお皇太子は、国王即位後はカールトン・ハウスへの興味を失い、建物は取り壊されてしまったため現存しません。
皇太子32歳の頃には、借金は63万ポンド(63億円以上)という莫大な額にまで膨れ上がっていました。

 

借金返済のための結婚

1795年、皇太子はとうとう父親の要求にしたがって、議会に借金を肩代わりしてもらうという条件で、ブラウンシュバイク公国のキャロライン公女と結婚することにしぶしぶ同意します。
彼女は父の姉の娘であったため、いとこ同士の結婚ということになります。

皇太子妃キャロライン 王妃キャロライン

キャロライン公女

その数年前、次弟ヨーク公フレデリックが兄弟のなかで晴れて一番乗りで正式な結婚をし、王族からも国民からも祝福と歓迎を受け、しかも結婚により年7万ポンドの歳費が支給されることになったことも、皇太子が結婚を決意する後押しになったようです。

皇太子ジョージ ジョージ4世

結婚した頃の皇太子ジョージ、34歳。

 

しかし、出会った当初からお互いの第一印象は最悪でした。
二人とも肖像画は実物よりも良く描かれていたため、本物を見て幻滅したのです。
キャロラインは肖像画のイメージに反して粗野で不潔で教養がなく、やや軽率な言動をする女性で、洗練された振る舞いとは言い難かったですし、皇太子ジョージも肖像画のほうがずっと痩せているように描かれていました。

Royal Collection Trust/© Her Majesty Queen Elizabeth II 2017

初対面の様子は、付添いの外交官マームズベリ卿によると以下のようだったといいます。

❝殿下(皇太子ジョージ)は、膝を曲げて挨拶をしたキャロライン公女を優しく抱き起こしたが、ほんの一言しゃべるとくるりと後ろを向き、広間の離れた所に引き下がり、私を呼んで、「ハリス[マームズベリ卿の名前]、気分が良くない、ブランディを一杯持ってきてほしい」と言われたので、私は「殿下、水の方がよいのではありませんか」と言ったところ、殿下は怒ったようにののしり、「いや要らない、王妃[皇太子の母]の所にすぐ行ってくる」と言って出て行ってしまった。ひとりぼっちにされた公女は驚いてしまい、私が近づくと、「旦那様、皇太子はいつもこんな風なのですか。皇太子はとても太っておられ、肖像画ほど美男子ではありませんね」と言った。❞

皇太子からの非情な仕打ちと屈辱的な扱いに、キャロラインの気持ちは急速に冷えていったことでしょう。

この3日後の4月8日には、セント・ジェイムズ宮殿内の礼拝室で結婚式が執り行われました。

皇太子ジョージ キャロライン妃

The wedding of George, Prince of Wales, and princess Caroline of Brunswick officiated on April 8, 1795

目撃談によると、皇太子は憂鬱そうな様子でまるで死人のようであり、まったくの錯乱状態に見えたそうですが、実は正体を失うほどワインとブランディを飲んでいたのです。その様子は出席者にも一目瞭然なほどでした。

キャロライン妃は侍女宛ての手紙で次のように語っています。

❝「結婚式の夜にひどく酔っぱらった夫を抱えて、私は途方に暮れました。私は初夜の大部分を、夫がへたり込んでしまった暖炉の下で過ごし、夫をそのままにしておきました。この様を見たなら、あなたはそのまま生命を終えてしまうのですか、それとも殺されるのですか、と誰もが私に尋ねたことでしょう…」❞

ジョージ4世 皇太子 キャロライン

惨憺さんたんたる新婚生活の始まりとなりましたが、皇太子が主張したところよれば、どうやら夜明けになって無事床入りが行われ、結婚が成立したとのことです。

 

◆摂政時代のカミラ夫人!? 愛人ジャージー伯爵夫人

ジャージー伯爵夫人(フランセス・ヴィリアーズ)は、カールトン・ハウスで夫婦ともども皇太子に仕えている貴婦人で、彼より9歳年上ながら魅力的な美貌の持ち主でした(皇太子と出会った当初はすでに40歳で孫もいた)。
1793年には皇太子ジョージを誘惑して深い仲になり、彼の対人関係を差配していくようになります。
ジャージー伯爵夫人

ジャージー伯爵夫人は性悪で狡猾な策略家だったようで、ライバルのフィッツハーバート夫人を遠ざけるため、皇太子にキャロラインとの縁談を積極的に勧めた人物でもあり、キャロラインを自分の意のままに操ろうと目論んでいました。

異国から嫁いでくる王女の出迎え役も、皇太子に働きかけて自ら買って出て、部屋付き侍女に任命してもらうことにも成功します。
つまり皇太子は、自分の愛人を妻の侍女としたのです。

イギリス軍艦ジュピター号に乗った花嫁キャロラインがグリニッジ港に到着して早々、ジャージー伯爵夫人はキャロラインをキツい言葉でやり込め、服装を批判し、馬車でも横並びに座ろうとしたりするなど(部屋付き侍女は通常、主賓に向き合う形で後ろ向きに座る決まり)、初めから見下している態度を隠そうともしませんでした。

❝待ち時間に、キャロラインは負傷した退役軍人の存在に深く惹きつけられた。ジャージー伯爵夫人が到着した時、キャロラインは軽い気持ちから「ここのイギリス人はどうして腕や足がないのですか」と問いかけたところ、「お願いだから冗談はやめて、奥さん」とジャージー伯爵夫人は荒っぽい言葉で切り返し、キャロラインを黙らせる一幕があった。またジャージー伯爵夫人は、キャロラインをじろじろ眺め回して衣装の趣味がよくないと批判し、マームズベリ卿に対しもっと厳しく言うようにと要請した。❞


すでに皇太子の女癖の悪さについて噂を聞いていたキャロラインは、早くも愛人の存在に悩まされることになります。
まるでチャールズ皇太子(現国王)と故ダイアナ元妃、カミラ夫人の三角関係のようです…

ジャージー伯爵夫人

1796年の風刺画。皇太子とジャージー伯爵夫人の浮気現場に突入する皇太子妃キャロライン。奥には生まれたばかりのシャーロット王女がいる

 

 

唯一の世継ぎ、シャーロット王女誕生

結婚後も皇太子は相変わらず放蕩にふけり、フィッツハーバート夫人との関係も続け、彼女を事実上の伴侶として公の席にも平然と同伴していました。

しかし奇跡的にも、挙式からぴったり9か月後の1796年1月6日、二人の唯一の子どもである王女シャーロットが誕生します。
女子ではありますが、皇太子はこれで跡継ぎは確保できたと言わんばかりに別居を始め、ますます距離を置くようになります。
夫婦仲は極度に冷え切り、養育方法を巡ってのいさかいも絶えなくなり、二人のあいだの溝は決定的なものになります。
のちにナポレオンがセントヘレナ島で死去した際には、その第一報を知らせた伝令が「陛下!最大の宿敵が世を去りました!(“Sir, your bitterest enemy is dead.”)」と叫んだのを聞いた国王は、「彼女が?やれやれ!(“Is she, by God!”)」とキャロライン妃と勘違いしたほどでした。

シャーロット王女 ジョージ4世

Princess Charlotte of Wales as a child by Sir Thomas Lawrence, c.1801-1806 Royal Archives

シャーロット王女は、母親との面会を制限されながらも、カールトン・ハウスやウィンザーですくすくと育ちました。
もはや不肖の息子にまったく期待を寄せなくなった国王ジョージ3世は、イギリス王室の将来を孫のシャーロット王女に託すべく、帝王教育を進めるようになります。

 

摂政皇太子時代(1811-1820)

「国王、乱心す」

シャーロット王女が15歳を迎えようとしていた頃、国王ジョージ3世を病魔が襲います。最愛の末娘アミーリア急死のショックが引き金となったようです。
ジョージ3世はポルフィリン症という精神疾患を患っていたらしく、身体の痙攣や異常な興奮状態、歩行困難、周囲への暴力や罵詈雑言など、完全な狂気に陥ってしまいました。
実は22年前にも国王は同じ症状に見舞われ、摂政制法案の成立まであと一歩だったところで突如恢復かいふくし、皇太子の期待もむなしく摂政制がついえてしまったことがありました(「1788年の摂政危機」)。

しかし今回は72歳の高齢かつ、ナポレオン戦争中の多事多難な情勢でもあるということで、国王は執務から退き、1811年2月5日、皇太子ジョージは晴れて摂政に就任しました。
これ以降、皇太子(Prince of Wales)は摂政皇太子(Prince Regent)と称されるようになります。

摂政皇太子ジョージ 

1815年、摂政皇太子時代の肖像画

 

都市改造と離宮建設

満を持して摂政となったジョージですが、政治にはほとんど介入せず、お気に入りの建築家ジョン・ナッシュを顧問に起用して、ロンドンの都市改造と離宮の建設に心血を注ぎました。

ロンドンでは、マリルボーン・パーク(現リージェンツ・パーク)のポートランド公爵との借地契約が切れたのを機に、そこからカールトン・ハウスまでを大街路で結ぶ計画が進められます。

ナッシュは、ナポレオンにより整備された帝都パリからこの着想を得たようで、シャンゼリゼ通りからルーブル宮殿、コンコルド広場へと繋がる街路を理想としていました。

リージェントストリート

1822年のリージェントストリート。

優美な弧を描く曲線が特徴のリージェント・ストリートと名付けられたこの通りは、現在でもロンドン有数の名所となっています。
それまで雑然として道も狭く貧相な家々が立ち並んでいた通りが、この都市整備により、近代的で瀟洒な大街路へと変貌を遂げたのです。

リージェントストリート

 

 

また、当時人気の海岸保養地だったブライトンでは、巨額の資金を投じてロイヤル・パビリオンの全面改築に着手します。

Engraving, Brighton Pavilion: "The Pavilion in 1788" (Nash's Guide to Brighton, 1885)

拡張前のロイヤル・パビリオン

ブライトン ロイヤル パビリオン

拡張後のロイヤル・パビリオン

ナッシュは、造園家のハンフリー・レプトンと協力して、インド風の壮麗な外観と中国風シノワズリの内装を持つ、オリエンタルでエキゾチックな宮殿を造り上げました。
(当時はけばけばしく悪趣味な建築だとの批判もありましたが)

初期の建物と土地の購入だけで7万ポンド、大厨房の改装だけで6000ポンドという大金を投じ、政府が出した改築費用の試算は約5万ポンドでしたが、改修工事全体にかかった費用は莫大すぎてもはや誰にも分からないそうです。

ブライトン ロイヤル・パビリオン

 

さらに、ジョージ4世として国王即位後は、バッキンガム宮殿の造営も行ないました。
それまで愛用し続けてきたカールトン・ハウスでは「イギリス国王の宮殿」としては手狭で使い勝手も良くないということで、約49万ポンドの費用をかけて新たな宮殿を造ることにしたのでした。
現在私たちが目にするバッキンガム宮殿の正面は1847年に増築および1913年に改築されたものですが、後方部分はナッシュによる建築様式を今も残しています。

By Photo:SAC Matthew ‘Gerry’ Gerrard RAF/© MoD Crown Copyright 2016, OGL v1.0

 

国王ジョージ4世時代(1820-1830)

豪華絢爛たる戴冠式

1820年1月、父国王の崩御を受けて、ついにジョージ4世として即位します。この時すでに57歳でした。

ジョージ4世 摂政皇太子ジョージ

1821年,戴冠式の衣装を身に着けた肖像画。実物よりもかなり痩せて描かれている。

議会で約24万ポンドという破格の予算が承認され、1821年7月19日に戴冠式が執り行われます。
前回から60年ぶりの戴冠式ということで、この時ばかりは国民もお祭り騒ぎに沸いたようです。

ジョージ4世 戴冠式

費用は政府資金から10万ポンド、そしてフランスからのナポレオン戦争の賠償金1億フランから賄われましたが、その内訳の一部はというと…

・衣装代総額45,000ポンド。国王の衣装代だけで24,000ポンド。
5メートルにも及ぶ長さの深紅のビロードのローブ。金糸でイングランドのバラ、スコットランドのアザミ、アイルランドのシャムロックの国花が刺繍され、裏地は貂の毛皮。
ローブを捧げ持つ9人の裳裾持ちの衣装は、エリザベス時代のコスチュームで統一。
ジョージ4世 戴冠式

・式場のウェストミンスター寺院の使用料と設営で16,000ポンド。
ジョージ4世 戴冠式

・宝石類と食器で約11万ポンド。
なかでも、1万個以上のダイヤがちりばめられた豪華な王冠の製作費だけで18,000ポンド(推定5万ポンドとも?あまりにも費用が高すぎたため1823年に解体された)。
ジョージ4世 戴冠式 王冠

また、普段用いるダイヤと真珠の宝冠(diadem)も8000ポンド以上かけて作成。こちらは男性には小さすぎるということでジョージ4世が使用することはなかったが、ヴィクトリア女王やエリザベス二世、カミラ妃などが代々愛用している。
ジョージ4世 宝冠
ジョージ4世 宝冠

・式典後、4500人以上が出席した大晩餐会に約25,000ポンド。
ジョージ4世 戴冠式 晩餐会

 

戴冠式にかかった総費用は27万6476ポンドと、結局、議会の予算を3万ポンドも上回ってしまいました。
途方もない金額と豪華さにクラクラしてきますが、この式典には、対ナポレオン戦争勝利に主導的な役割を果たしたイギリスの威信を誇示する目的もあったと思われます。
ジョージ4世は皇帝ナポレオンの戴冠式を凌駕することを目指していたそうです。

 

離婚スキャンダル

キャロライン妃は娘との面会を制限され、摂政就任祝賀会やその他晩餐会からも疎外されるなど、自身の境遇と待遇に不満を抱くようになっていました。
そのため、1814年からイギリスを出国し、一人ヨーロッパ周遊の旅に出ていましたが、その最中イギリス王室に悲劇が襲います。
なんと、一人娘のシャーロット王女が死産の末に死亡してしまったのです。ザクセン=コーブルク公爵家のレオポルドと幸せな結婚をし、二度の流産の末、待望の男児を出産した矢先の出来事でした。
シャーロット王女

イギリスは王位継承者を2人も同時に失い、しかもジョージ4世の弟たちには嫡出子が誰一人いないという、王室存続の危機に見舞われました。
国民大衆は、贅沢放蕩の限りを尽くすジョージ4世にもはや期待しておらず、清新で若くして夫婦と家庭の模範を示したシャーロット王女にイギリスの将来を期待していたため、国中が大きな打撃を受けました。

シャーロット王女 レオポルド

 

「虐げられた王妃キャロライン」

娘の急逝の報を受けた母キャロライン妃は深い悲嘆に暮れましたが、夫のスパイに追われていることもあり、一人旅を続けました。娘の王位継承によって自分が皇太后(Queen Dowager)となる夢も潰えてしまいました。
しかしその2年後の1820年、叔父でもあり義父であるジョージ3世の訃報を受け、ついに新王妃としてイギリスへ帰国することを決意します。

キャロライン妃

A Late Arrival at Mother Wood’s (1820) CC British Museum

王妃を歓迎する市民たち©British Museum

国王となったジョージ4世は、妻の帰国を阻止しようとしたものの失敗し、1820年6月、キャロライン妃は6年ぶりにイギリスの地を踏みました。
ジョージ4世は、もはや自分を束縛する父もなく、一人娘も亡くなった今、結婚を続ける必要性を感じなくなったため、妻との離婚を企てます。

ジョージ4世は、『キャロライン妃がミラノに滞在中、侍従のイタリア人青年と不義密通を働いた』と言い立て、結婚を無効化して王妃の地位を剥奪する「王妃に対する刑罰法案(Pains and Penalties Bill against Her Majesty)」の審議を貴族院に命じて法制化しようとします。
この「裁判」でキャロライン妃自身も証人として喚問を受けました。

王妃に対する刑罰法案 キャロライン妃 1820

しかし「虐げられた王妃」として国民大衆から絶大な支持を集めていたキャロライン妃は、これに対抗します。庶民院では王妃に同情する者が大半を占めており、民衆からも王妃を支持する800以上の請願書や100万人近くの署名が集まったといいます。
自分の乱れた愛人関係を棚に上げて妻に不義密通の嫌疑をかける国王(性の二重規範)に、多くの批判が集まりました。

なお、オースティンは1813年にキャロライン妃の手紙が新聞に暴露されるスキャンダルがあった際、以下のようなキャロライン擁護と皇太子ジョージに対する嫌悪の言葉を残しています。
「お気の毒な方。私はできる限り皇太子妃を支持します。彼女が女性であることと、彼女の夫君が大嫌いなので。…でも、もし皇太子妃を支持できなくなっても、最初に皇太子がきちんとした振舞いをしていれば、彼女も悪い方向では行かなかったのでは、とだけは思うつもりです。」

キャロライン妃支持に集まった大群衆

とうとう圧倒的な世論に押された形で法案は廃案となり、ジョージ4世は離婚をあきらめざるを得なくなりました。

“Which is the dirtiest”「一番汚いのはどちら」(dirtyに「卑猥な」の意味も掛けている)

戦いの女王ブーディカに例えられたキャロライン妃(Boadicea, Queen of Britain, overthrowing her enemies, humbly dedicated to Caroline Queen of Great Britain and Ireland)

戦いの女王ブーディカに例えられたキャロライン妃 (Boadicea, Queen of Britain, overthrowing her enemies, humbly dedicated to Caroline Queen of Great Britain and Ireland)© The Trustees of the British Museum

キャロライン妃 ジョージ4世 離婚

“Public Opinion!” Green Bagとは、「裁判」の調査資料や証言記録(偽証)を入れた袋のこと。© The Trustees of the British Museum

キャロライン王妃支持を描いた戯画の数々。
「キャロライン王妃事件」は、「大衆の感情を徹底して興奮させ、商売はそっちのけになり、個人の楽しみも忘れ、食事さえも二の次」になるほど国民大衆を熱中させたといいます。

キャロライン妃 ジョージ4世 離婚

“Total Eclipse.” Queen Caroline crowned and irradiated, stands on clouds, holding up a paper inscribed “JUSTICE FOR THE OPPRESSED and FREEDOM for MILLIONS.”© The Trustees of the British Museum

プライベートなことであろうと、かつてのヘンリー8世の時代のようにもはや国王の好き勝手が許される時代ではなくなったのです。
この「裁判」の模様は連日新聞雑誌で報道され、戯画入りパンフレットなどで面白おかしくかき立てられるなど、国王の権威は著しく下がりました。

 

キャロライン王妃の死

この翌年の1821年、ウェストミンスター寺院では前述のとおりジョージ4世の戴冠式が行われます(本来は1820年8月1日に予定されていたのですが、王妃帰国後の王妃に対する熱狂的支持や「裁判」への動きのなかで、正常な戴冠式が実施できる状況ではなくなったため、約一年後に延期されたのでした)
キャロライン妃は王妃として出席しようとしたものの、門番から入場を拒否され閉め出されてしまいます。ジョージ4世の命令によるものでした。
その翌日から体調不良を訴えていたキャロライン妃でしたが、わずか3週間後、なんと急逝してしまいます。
腹膜炎だったそうですが、当時は国王による毒殺説も流れました。

 

晩年のジョージ4世

ジョージ4世は即位後も、奔放な伊達男の生活は変わりませんでした。
「最愛の妻」フィッツハーバート夫人とは1803年頃にすでに別れ、1807年からはハートフォード侯爵夫人イザベラ、国王就任前の1819年からはカニンガム侯爵夫人エリザベスを愛人としていました。

ハートフォード侯爵夫人イザベラ ジョージ4世 愛人

ハートフォード侯爵夫人イザベラ。ロンドンにある彼女(の夫)の邸宅ハートフォード・ハウスは、現在ウォレス・コレクション(美術館)となっている

カニンガム侯爵夫人エリザベス ジョージ4世 愛人

カニンガム侯爵夫人エリザベス

ハートフォード侯爵夫人 カニンガム侯爵夫人 ジョージ4世

ハートフォード侯爵夫人からカニンガム侯爵夫人への乗り換え© The Trustees of the British Museum

ジョージ4世は、すでに摂政皇太子時代から長年の暴飲暴食や美食がたたって、体はぶくぶくと肥満して100kg以上となっており、痛風にも悩まされるようになっていました。
痛み止めのための大量のアヘンチンキ服用(当時は一般的な薬だった)により、薬物中毒にも陥っていたようです。

ジョージ4世

 

最晩年は心身ともに衰弱が進み、公務からも退き、ウィンザー城で隠遁生活を送りました。
最期には白内障により片目の視力も失い、体重は130kgを超えていたといいます。そして1830年6月26日、67歳で崩御しました。

© The Trustees of the British Museum

 

まとめ

ジョージ4世は「華麗な文化の象徴」と「享楽的で自堕落な浪費家」という二面性をもった国王でした。
政治的にはほとんど重要な役割を果たしていないため、教科書にも載らないほどです。皇太子時代は、父国王と敵対し友人の多い革新派のホイッグに肩入れしたかと思えば、摂政皇太子時代頃からは保守派のトーリーに傾き、自由主義的改革に反発するなど、政治的無定見さが目立ちます。
けれども、この記事では書ききれませんでしたが、British LibraryやNational Galleryの基礎を築いたほか、王立美術院(Royal Academy of Arts)のパトロン活動、50近い団体の慈善活動などにも支援を惜しみませんでした。
ガーター勲章をはじめとする勲章外交の推進、ハノーヴァー王朝初のスコットランド行幸なども彼の功績です。

同時代の人々からすれば、浪費家で問題ばかり起こす厄介極まりない存在だったかもしれませんが、後世の人間からすれば、「摂政時代」という華やかな一時代を築き上げ、今日のイギリス文化に多大な貢献をした国王と言えるでしょう。

 

トラファルガー広場に立つジョージ4世の銅像

トラファルガー広場に立つジョージ4世の銅像

 

 

<参考文献>
指昭博『図説イギリスの歴史』河出書房新社、2002年.
古賀秀男『キャロライン王妃事件』人文書院、2006年.
君塚直隆『ジョージ4世の夢のあとーヴィクトリア朝を準備した「芸術の庇護者」』中央公論新社, 2009.
新井潤美『ジェイン・オースティンとイギリス文化』日本放送出版協会, 2010.
C・エリクソン, 古賀秀男訳『イギリス摂政時代の肖像ージョージ4世と激動の日々』ミネルヴァ書房, 2013.
西山清「プリンス・リージェントの功罪とキャロライン裁判の顛末(1)」『早稲田大学大学院教育学研究科紀要』第22巻、早稲田大学大学院教育学研究科、2012年.
西山清「プリンス・リージェントの功罪とキャロライン裁判の顛末(2)」『早稲田大学大学院教育学研究科紀要』第23巻、早稲田大学大学院教育学研究科、2013年.
Mary Hamilton and the Prince of Wales(Royal Archives)
The British Museum

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