はじめに
ボー・ブランメル[本名ジョージ・ブライアン・ブランメル(1778-1840)]は、稀代の 「伊達男」として摂政時代の男性ファッション界を牛耳り、皇太子をも凌ぐイギリス上流社交界の頂点に君臨した人物です。
また、現代の紳士服の典型的様式である、三つ揃えスーツの完成者としても有名です。
「ボー」というのはフランス語のBeau「洒落者」を意味する言葉で、ダンディズムの第一人者であったブランメルに捧げられた異名です。
この記事では、ボー・ブランメルの伝説たる所以とその生涯をご紹介します。
ボー・ブランメルの何がすごいのか?─紳士服の革新者
みなさんは「英国紳士」といえばどんなイメージを思い浮かべるでしょうか? シャーロック・ホームズのように、一分の隙もなく黒のスーツを着こなした粋な紳士の姿でしょうか。
実はそのようなスーツの原型を生み出したのが、ボー・ブランメルなのです。
まずブランメル以前の18世紀の男性服というのは、フランス宮廷貴族の装いに顕著なように、派手な色彩で、レース飾りや刺繍などが装飾された女性的なものでした。
マリー・アントワネットの時代のロココ調の男性服では、パステルカラーや絢爛豪華な装飾が多用されています。
しかしブランメルは、男性服から一切の色彩を追放して「黒」を基調としたダークカラーと白のみを用い、余計な装飾はすべて排除し、清潔かつ端正な衣服は体に完璧にフィットさせることで、シンプルながらもエレガントなスタイルを確立しました。
これらの原則は今日に至るまで大きな変化もなく受け継がれ、彼は男性服をわたしたちが現在見慣れている紳士服にほぼ近い形に仕上げたのです。
(衣服に「黒」を使い、一過性の「流行」ではなく後世まで続く「スタイル」を生み出した点で、ココ・シャネルと通じるものがあると思います)
これまでの華美で派手な男性服しか目にしたことがなかった当時の人々からすれば、非常に斬新かつ洗練されたものに映ったでしょう。
彼は従来の価値観を一変させ、新しい英国式典雅の規範を確立したのです。
ブランメルのファッションはまたたく間に人々の模倣するところとなり、放蕩者かつ洒落者として知られていた皇太子ジョージからも、憧憬と羨望の目で崇められていました。
皇太子お気に入りの仕立て屋でさえ、戸口に<王室御用達>と記すよりも、<ブランメル氏御用達>の看板を掲げたがったそうです。
映画「ボー・ブランメル」(1954)より
傲岸不遜で皮肉な毒舌家
ボー・ブランメルが有名なのは、その非の打ち所のない身だしなみだけではありません。
彼の傲岸不遜といえるほど皮肉な言動、ナルシスト的な自惚れ、すべてを見下した侮蔑的な態度、冷ややかで物憂げな立ち居振舞いでも他の人々を圧倒していました。
彼の傍若無人ぶりを示す伝説的エピソードや名言のいくつかをご紹介しましょう。
登場人物は3名。ブランメルとその従者、土地の案内役の貴紳。
貴紳「ブランメルさん、どの湖が特にお気に召しましたか?」
ブランメル(あくびまじりに)「ロンドンからずいぶん遠いですな。」
貴紳「まあ、そうおっしゃらずに……」
ブランメル(従者に向かって)「ロビンソン、私がいちばん気に入った湖はどれだ?」
従者「私めには、旦那さま、ウィンダーミア湖のように見受けられますが。」
ブランメル「じゃ、そうなんだろう。(貴紳のほうを振り向いて)ウィンダーミア湖……これでいいですか?」❞
物事に対する気怠い無感覚の姿勢、寸鉄人を刺す毒舌がブランメルの伝説たる所以です。
「ぼくもたいへん残念に思っている。だって、自分でも気に入っているほうの脚だからね。」❞
ナルシシズムこそがダンディズムの真髄。
ブランメルは服装においてはむしろ控えめであることに情熱を注ぎ、<中庸>を第一に重んじていました。あらゆる奇抜さ、派手な色彩は彼の目には悪趣味と映っていたのです。
<伊達者>はしばらくその衣服を検討していたが、やがて判決を待ち受ける公爵の不安顔を尻目に、その優美な親指と人差し指でその襟をつまみ上げると、憤慨をまじえた驚きの口調でこう聞き返した。
「ねえ、ベッドフォード君、こんなものをきみは服と呼ぶつもりかね?(Bedford, do you call this thing a coat?)」❞
ブランメルは相手がどんな大貴族だろうが、はたまた皇太子だろうが、大胆不敵にも尊大に見下すことで、かえって人々の畏敬を集めていました。それが後々の失寵に繋がるのですが……
生い立ちとその生涯
祖父は従者、父は私設秘書の中流階級出身
ジョージ・ブランメルは1778年、ロンドンのダウニング街で、父ウィリアムと母メアリーとの間に次男として生まれました。ブランメル家は名門の家柄ではなく、祖父は従者(valet)、つまり使用人の身分にすぎませんでした。あるいは菓子職人であったとも伝えられています。
しかし父ウィリアムの代になって、一家の地位が上昇し始めます。ウィリアムは、当時首相を務めていたノース卿の私設秘書の職に就き、その信望を得て、2,500ポンドもの年俸を得るようになります(1ポンドは約1万円~2万円ほど。2,500ポンドは上位中流階級であるジェントリと同等の年収)。
1783年、父ウィリアムはバークシャーに立派な地所と邸宅(Donnington Grove)を購入し、ジェントルマンになるための歩みを着実に進めます。
1790年には、12歳の息子ジョージをイートン校に入学させました。

バークシャーのドニントン・グローヴ。現在はホテルになっている

ブランメルと兄ウィリアムの幼少期の肖像画
イートン校に入学
イートン校は貴族やジェントリの子息のための名門パブリック・スクールです。しかしブランメルは平民出身ながら、その優雅な身だしなみや立ち居振舞い、機知に富んだ話術で周囲の注目を集め、貴族の子弟たちとも対等に付き合うようになります。
髪をときつける技においても、雨降りの日に靴下に泥はねをつけずに歩く技においても、貴公子揃いの全校生中で彼の右に出るものはいませんでした。
またブランメルは、早くも服装に対する並々ならぬ関心を示しており、靴の新しいバックルも考案したそうです。

青年時代のブランメル
皇太子との出会い
ブランメルと皇太子ジョージ(のちの摂政皇太子およびジョージ4世)との出会いははっきりと分かっていませんが、イートン校在学中に皇太子の目に留まり知遇を得たことは確かなようです。
ある逸話によると、ブランメルの叔母サール夫人が管理していた、ロンドンのグリーン・パーク内にある小洒落た田舎風家屋(マリー・アントワネットのプチ・トリアノン的な自然礼賛かぶれの遊びが流行っていたらしい)には、上流階級の訪問客が出入りしていたらしいのですが、そこになんとある日皇太子が訪れます。
皇太子はブランメル少年の落ち着き払った態度、優雅な物腰、賢しげな顔立ちに惹きつけられたといいます。
皇太子「卒業したら、君は何になるつもりかね?」
ブランメル「できれば軍人となって、国王にお仕えしたいと思います。」
皇太子「ではジョージ君、オックスフォードを出たら、私のところへ来たまえ。近衛連隊に、第十軽騎兵隊に、きみを任命しよう。」❞
このとき皇太子ジョージは32歳、ブランメルは15,6歳。
“ヨーロッパ第一の紳士”を自任し、大英帝国の王たらんよりもダンディの王たらんことを念願していた皇太子ジョージは、この完璧な身だしなみの小さな紳士に感銘を受けたそうです。
16歳の年齢差を超え、趣味や嗜好を同じくする皇太子の後楯を得たことにより、ブランメルの将来の前途が開くことになりました。

29歳のプリンス・オブ・ウェールズ
陸軍の花形、近衛騎兵隊に入隊
1794年、ブランメルはオックスフォード大学に入学するもすぐに中退し、皇太子との約束通り、16歳の若さで陸軍近衛騎兵隊の旗手に任命されます。
第十軽騎兵隊は門地の高い貴族の子弟のみに入隊資格があたえられる超エリート集団であり、配属を認められることはこの上ない名誉でした。
しかしブランメルはこの異例の抜擢に、別段感動するふうにも見えなかったそうです。また彼は、自分の所属部隊すら見分けられないほど軍務に疎いふりを装い、意識的怠慢を示すことで、かえって粋とされました。
陸軍での立身出世などという俗世的事柄から超越した、冷ややかな姿勢が伺えます。

第十軽騎兵隊の軍服を身に着けた皇太子ジョージ自身の肖像画
洒落者ぞろいの近衛騎兵隊のなかで、ブランメルの存在はひときわ異彩を放ち、その卓越した身嗜みと冷やかな礼節、当意即妙のウィットや諧謔は、同僚や上官たちの賞賛を得るようになりました。
1795年、皇太子ジョージがドイツのブラウンシュヴァイク公国から花嫁(のちのキャロライン王妃)を迎える際にも、錚々たる名門貴族達をさしおいて、ブランメルはその出迎え役の付き添い騎士に指名されました。平民出身でありながら、いかに皇太子のお気に入りであったかが分かります。
ブランメルは入隊後わずか2年で大尉へと昇進しましたが、1797年、北部マンチェスターに転駐せよとの命が連隊に下ると、庶民的でおぞましい工業都市に住むなど到底耐えられなかったブランメルは、あっさり陸軍を辞め、一介の郷士として生きていくことを決意しました。
彼は軍人稼業そのものに興味はなく、あくまでもロンドンという都会と、そこで営まれる贅沢で華やかな社交生活を愛していたのです。

19世紀前半のマンチェスター。工場の煙突が多く立ち並ぶ産業革命の中心的都市だった
紳士服への徹底的なこだわり
1799年、21歳のブランメルは高級住宅街メイフェアのチェスターフィールド街に居を構え、衣服へのこだわりをさらに徹底的に追求していきます。

チェスターフィールド街4番地に掲げられたブルー・プラーク。
その頃、彼は亡き父から3万ポンドという多額の遺産を相続していたものの、他の貴族の子弟連中の贅沢三昧で豪奢な生活に付き合うには、到底足りない額でした。一週間にわたる盛大な誕生祝賀パーティーに6万ポンドを費やしたり、舞踏会開催に8万ポンドを投じたりする最上流貴族たちの間では、3万ポンドなどほんのはした金でしかなかったのです。
そこでブランメルは、貴族たちの財力に無謀に張り合って華美をねらうのではなく、“黄金の中庸”という独創的な美学に身を包んで、自らの存在感を示すことにしたのです。
彼の服飾哲学は以下のようなものでした。
・そのためには、肉体の美しい線を保つための克己と鍛練が必要である。
・上衣の生地は、色彩においては地味であるが、識者の目からみて立派でなければならない。
・装身具の中で最も汚れやすい靴は、常に綺麗に磨かせねばならない。
・唯一創意工夫が許されるのはネッククロス(頸布。ネクタイの前身)の結び方であるが、あまり凝った飾りつけをしてはならず、シミ一つない純白の生地でなければならない。
・飾りといえば細い時計の鎖ひとつのみで、香水はまったく用いない。
・わざわざ田舎で晒させた下着を贅沢に使用する。
↑当時のネッククロス。
↑1800年代初頭の男性ファッション。
同時代を生きた詩人バイロンによると、ブランメルの身なりには、ある精妙な小綺麗さ以外、何ひとつ特徴らしきものがなかったと語っています。
ブランメルの着付けの儀式は2時間にもおよび、特にネッククロスの結び方には大変な神経を使ったそうで、ときには皺になった白い生地の山が部屋中に散らかることもありました。
また、しばしばその取り巻きや皇太子みずからがその儀式に参列し、ブランメルの一挙手一投足を賛美と羨望の眼差しで見守っていたそうです。
ブランメルが衣服にかけた金額も並大抵のものではありませんでした。
「奥様、厳格な節約をすれば、おそらく年に800ポンドでできるでしょうね。」❞
年800ポンドといえば、当時としては相当な大金です(現在の日本円に換算すると800万円~千数百万円)。ブランメルの返事に唖然とする貴婦人の顔が目に浮かぶようです。
ダンディの王として社交界の寵児に
やがてブランメルは社交界のファッションリーダーとして、絶大な影響力を持つようになります。
粋をひけらかす者にとっては、ブランメルと一緒にいるところを見られることは無上の価値があると考えられました(そしてブランメル自身もそう考えていた)。
「このあいだきみがクラブの入口にいたとき、わたしは手で合図して、『こんにちは、ジミー』と言ったね。これでおあいこじゃないかね?」❞
ブランメルは、ロンドン上流社会のあらゆる催しやパーティー、サロンの集まりへ招かれ、一流名門貴族にまじって彼の名前が招待客名簿のトップに記されるようになります。その影響力たるや、もはや皇太子すら物の数ではないほどでした。
「これがウェールズ公の選ばれた生地です。でもブランメル氏のお好みの生地はこちらです。」
すると客は、一人残らず後者を選ぶのだった。❞
いわゆる美男子ではなかった
ブランメルが一躍流行界の寵児となり、名門貴族淑女たちの羨望と賞賛の的であったといえば、絶世の美男子の姿を想い浮かべるかもしれません。
しかし、現実のブランメルは決して世にいう二枚目ではなかったようです。もちろん不器量ではなく、その体形は見事に均整の取れたものではありましたが、いくぶん長めの顎や、尖った鼻、自信にみちた不遜な目など、その容貌は必ずしも眉目秀麗とは言えなかったそうです。
女性たちの憧れの的でありながら生涯独身
ブランメルは女性たちの憧れを一身に集めていましたが、いわゆる女たらしではなく、特別な恋人や愛人はいませんでした。
デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ・キャベンディッシュやヨーク公爵夫人フレデリカ、女傑レディ・へスター・スタンホープなど、数多くの貴婦人たちと頻繁に交友してはいましたが、あくまでも恋愛感情を抜きにした異性の友人だったようです。
ダンディにとって、女性は自らの威信を高めるアクセサリー的存在に過ぎなかったのです。

デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ

ヨーク公爵夫人フレデリカ
摂政皇太子との不和、絶縁
1810年、国王ジョージ3世が精神疾患のため執務不能となり、皇太子ジョージが摂政皇太子となります。(イギリスに譲位という概念はないため、国王崩御の瞬間まで皇太子が執務を代行する)
1820年にジョージ3世が崩御し、摂政皇太子がジョージ4世として即位するまでの10年間は、摂政時代と呼ばれます。
その頃、摂政皇太子は若い頃からの美食と不摂生がたたってでっぷりと太り、中年になる頃には体重100キロを超える肥満体となっていました。ダンディを志す者にとっては致命的な痛手です。人々は影で嘲笑し、風刺画も多く描かれたほどでした。

The Prince Of Wales(皇太子)とThe Prince Of Whales(クジラ)をかけた駄洒落

1824年の風刺画。晩年は痛風に悩まされていた
ブランメルも、カールトン・ハウス(摂政皇太子邸)のふとっちょ衛兵のあだ名をとって、摂政皇太子のことを「ビッグ・ベン(ロンドンの大時計塔)」というあだ名で呼ぶ危険な遊びをおおっぴらに楽しんでいました。
ダンディーの王としてブランメルの地歩が揺るぎないものとなった頃、皇太子との仲に亀裂が生じ始めます。ブランメルの不敬な言動に、皇太子はだんだんと不快感を募らせていたようです。
二人の確執が決定的となった出来事は諸説あり、信憑性も定かではありませんが、最も有名なエピソードは以下のものです。
次にブランメルと向かい合い、彼を見つめたが、面識のないふりを装い、そっぽを向いてしまった。
するとブランメルは見事な機転を発揮し、お互い面識がないというこの仮定を利用して、友人に向かってこう問いかけた。
「アルヴァンレー、きみのお友達の、このデブちゃんは誰かね?(“Alvanley, who’s your fat friend?”)」
その瞬間を目撃した連中は、この揶揄によって皇太子はひどく傷つけられたようすだったと伝えています。
しかし皇太子の寵愛を失ってもブランメルの威光はまったく傷つけられず、むしろ新たな箔を加えたほどでした。名門貴族たちからは引きも切らずに招待され、もはや彼の出席しない催しや夜会は考えられず、彼の栄光は頂点に達します。
中流階級出身の一介の伊達者が、英国最上流社会の主役の地位にまで登りつめたのです。
借金地獄によりフランスに逃亡、投獄
ブランメル栄光の終わりは、賭博による多額の借金が原因でした。
流行界の王として絶頂期にあった1813年頃から、ブランメルはギャンブルで借金を重ねるようになります。莫大な金額を失ってなお、微塵も動揺を見せないことがダンディーたるものの条件とみなされていました。
一説によると、彼の借金はおよそ60万ポンド[約60億円]にも上ったとされています。
1816年、ブランメルは債権者の手を逃れるため、とうとうフランスのカレーへと亡命します。イギリス本国の友人達や有力者からの援助により、彼は何とかダンディーの面目を保つ生活を続けることができました。

カーンでのボー・ブランメル
1830年には、またもや本国の友人たちの尽力で、カレー近郊の街カーンの英国領事(年収千フラン)の職を得て、一時的に貧窮生活を脱しますが、2年後に領事職が廃止されて信用が失墜すると、1835年、ついに債務者監獄に投獄されてしまいました。
知らせを受けた旧友たちが資金を携えた使者を直ちに派遣して、ブランメルはほどなく釈放されますが、困窮生活に加え、梅毒の症状で精神に異常をきたすようになります。
そして1840年、カーン郊外のボン=ソヴール養老院にて、ブランメルは付き添いの看護婦にみとられつつ、ひっそりと息を引き取りました。享年62でした。

カーンにあるボー・ブランメルの墓
おわりに
生前は「ダンディズムの神様」と仰がれ、ただ「お洒落である」というだけで歴史に名を遺し、その死後も粋な男性の鑑となったボー・ブランメルの生涯をご紹介しました。
悲惨な最期を迎えたものの、摂政皇太子との交友関係など、華やかな摂政時代を体現したような人物です。
ブランメルの服飾美学が200年以上後の今日まで受け継がれていること、現代紳士服の基礎を確立した偉大な貢献者であることが、日本でももっと知られればと思います。
彼なくしては、今の英国紳士像も違ったものになっていたかもしれませんね。

メイフェアに立つボー・ブランメルの銅像
<参考文献>
Jesse, William, The Life of George Brummell, 1844.
生田耕作, 『ダンディズム』中公文庫, 1999.
山口和彦,「ボー・ブランメル─その生涯とダンディズム」2001.