説得 第5章/マスグローヴ家の人々

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 クロフト提督夫妻がケリンチ・ホールを見学に来る予定になっていた日の午前中、アンはラッセル夫人宅まで日課の散歩をして、訪問が終わるまでは身をひそめておくのが自然だと思った。でも、クロフト提督夫妻に会う機会を逃すのは残念だと感じるのも、当然だと思った。

 エリオット家とクロフト家の顔合わせはたいへん満足のいくものとなり、すべての用件があっという間に取り決められた。ご婦人方(エリザベスとクロフト提督夫人)は、すでに合意に向けて前向きだったので、おたがい相手を礼儀正しい人だと思っただけだった。紳士方のほうは、クロフト提督の朗らかで陽気な性格や気さくで人好きのする物腰に、サー・ウォルターも感化された。おまけにシェパード氏から、「サー・ウォルターは礼儀作法のお手本のような方だという評判を、提督は耳にしているそうですよ」とおだてられたため、彼としても最高に上品な態度でもてなしたのだった。

 ケリンチ・ホールの屋敷も土地も内装も気に入られ、クロフト提督夫妻のほうも気に入られ、賃借の条件と時期についても万事うまく取り決められた。シェパード氏の事務所の事務員たち1はさっそく仕事に取りかかり、「この証書は以下の通り記す。」という定型句から始まる契約書を、一言も修正する必要がなかった。

 サー・ウォルターはためらいなく、「クロフト提督はいままで会った海軍軍人のなかで一番の男前だ」と断言した。そして、「もしわたしの従者に髪を整えさせたなら、どこで一緒にいるところを見られても恥ずかしくはない」とさえ言った。

 クロフト提督のほうはというと、ケリンチ・ホールの敷地を馬車に揺られて帰りながら、憐れみ深く思いやりある口調で、妻にこんな感想を述べた。「トーントンではいろいろな噂を耳にしていたが、すぐに話がまとまるだろうと思っていたよ。あの准男爵は、決して世間をあっと言わせるような大物ではないけれど、別に悪い人ではなさそうだね」──まあこれは、サー・ウォルターの「褒め言葉」に対するお返しとしては、おあいこといったところだろう。

 クロフト提督夫妻は九月二十九日のミカエルマス2にケリンチ・ホールに引っ越してくることになっていたが、サー・ウォルターはその前の八月のうちにはバースに移ると宣言したので、大急ぎでそれに伴うあらゆる手はずを整えなければならなかった。

 ラッセル夫人の考えでは、バースで一家が住むことになる家探しの際も、アンは確実にサー・ウォルターたちから無用な扱いを受けるだろうと思っていたから、こんなにも早くアンを出発させてしまうのは嫌だった。なので、可能であれば、クリスマス後にラッセル夫人自身がバースへ向かうタイミングでアンも一緒に同行させて、それまでは自分の家に滞在させてやりたかった。

 けれどもあいにくなことに、ラッセル夫人は別の用事があってどうしても数週間ケリンチを離れなければならなかったので、アンをまるまる望み通りの期間招待することはできなかった。アンとしては、日光が白い建物にギラギラと眩しく照りつける暑い九月のバースは恐ろしかったし、田舎の甘美で切ない秋の情趣を味わえなくなるのは残念だったけれども、いろいろ考え合わせてみると、この地方に残りたいとは思わなかった。それが一番正しくて、一番賢明なのだ。だから、父や姉と一緒に行くこともそれほど苦痛ではなかった。

 しかし、あることが起こって、アンは別の役目につかなければならなくなった。妹のメアリーはしょっちゅう体調が悪く、いつも自分の病気を大げさに考えていて、何か問題が起こるたびにアンを呼びつける癖があるのだが、今回もまた体調不良になったのである。メアリーが言うには、この秋のあいだじゅう一日も元気でいられそうにない、だからどうかアパークロス・コテッジに来てほしい、とお願いして(というか命じて)きたのだ。そしてバースに行く代わりに、こちらの求めるかぎり付き添い役を務めてもらいたい、とのことだった。

「わたし、アンがいないと何にもできないわ」というのがメアリーの言い分だった。そして姉エリザベスの返答はというと、次のようなものだった。「それじゃアンはここに残るといいわ。バースでは誰もアンのこと必要としてませんから」

 どんな不適切な言い方だろうが、役に立つからぜひ来てほしいと求められるのは、全然役に立たないから要らないと言われるより、多少はマシである。アンは、自分なら役に立てると思われていることも、何かはっきりとした役目がある仕事を持てることも、嬉しかった。もちろん、自分の愛する土地でそれを果たせるのであればなおのこと喜ばしかったので、すぐさま同意して残ることにした。

 メアリーからの招待は、ラッセル夫人の心配をすべて一掃してくれた。結果的に、アンがラッセル夫人と一緒にバースへ向かうまでの間は、まず初めにケリンチ・ロッジ[ラッセル夫人の住居]に滞在し、それから次はアパークロス・コテッジ[メアリー夫妻の住居]に滞在するというように取り決められた。

 そこまでは、万事完璧に準備が整えられていた。しかしラッセル夫人は、ケリンチ・ホールのほうのあるとんでもない計画について聞かされると、びっくり仰天してしまった。なんと、あのクレイ夫人が、サー・ウォルターとエリザベスと一緒にバースへ付いて行くというのである。エリザベスはこれからあらゆる用件をこなさなければならないので、きわめて重要で頼りになるアシスタントとして付き添わせるというのだ。こんな措置が取られたことを、ラッセル夫人はものすごく残念に思った──とても驚いたし、胸が痛み、心配でたまらなくなった。アンは何の役にも立たないと思われているのに、クレイ夫人はたいへん有用だと思われているのである。そうした対応に込められているアンへの侮辱に、ラッセル夫人は激しい怒りを覚えた。

 でもアン本人は、そうした侮辱には慣れっこになっていた。だがこの取り決めの軽率さは、ラッセル夫人に劣らず痛切に感じていた。アンはこれまで静かに観察を重ね、父親の性格について熟知していたので(あまり知りたくなかったと思うことがしばしばだったが)、この親密さが家族にもたらす結果はこの上なく深刻なものになりかねないと感じていた。とはいえアンは、今のところ父が再婚するつもりがあるとは思わなかった。クレイ夫人はそばかすだらけで出っ歯だし、不格好な手首をしていた。サー・ウォルターは、クレイ夫人がいないところで、そのことについてしばしば辛辣に言っているのだ。

 だがクレイ夫人はまだ若く、全体的には確かに美人で、鋭い頭脳と疲れを知らぬご機嫌取りの態度という、どんな個人的魅力よりもはるかに危険な魅力を備えていた。アンは非常に危機感を覚えたので、姉のエリザベスにも知らせようと決意した。話がうまくいく見込みはほとんどないだろうと思ったが、もしそんな事態(つまり父サー・ウォルターがクレイ夫人と再婚するという事態)になって、気の毒な思いをするのは自分よりも姉のほうなので3、こうして忠告しておけば、後になってエリザベスから「どうして何も警告してくれなかったの」と非難されるいわれはなくなるだろう。

 こうしてアンはエリザベスと話をしたが、どうやらただ相手を怒らせてしまっただけのようだった。エリザベスは、なぜそんなばかげた疑いが思い浮かんだのか理解できない、あの二人はそれぞれ自分の立場を完璧に心得ているはずだ、と憤然として答えた。

「クレイ夫人は自分の身分を決して忘れちゃいないわ。それにわたしはね、あなたよりずっとよく彼女の考え方を知っているんだから。結婚に関する話題では、あの二人は特にきちんとした考えを持っているし、社会的地位や身分が不釣り合いな結婚についても、クレイ夫人はたいていの人より強い語気で非難してるのよ。それからお父さまについてだけど、こんなにも長い間わたしたちのために独身を貫いてくれていたのだから、いまさら再婚するのでは、なんて疑念を持つ必要なんかないわ。もしクレイ夫人がものすごく美人なら、わたしが彼女と一緒に過ごしすぎるのは良くないわよ、たしかにね。まさかわたしが、そんな家名に泥を塗って不幸になるだけの結婚をするよう、お父さまをそそのかすはずもないですし。でもお気の毒なクレイ夫人は、いろいろと長所はあるけれども、いままでまあまあ綺麗だとすら思われたこともないの。だから、ここにいてもまったく安全だと思うわ。まるであなたは、お父さまが彼女の不器量さについて話すのを一度も聞いたことがないみたいな言い草だけど、わたし知ってるのよ、あなただって数十回は耳にしてたじゃないの。あの出っ歯とそばかすときたら! けどそばかすに関しては、わたしはお父さまほど気にならないわ。ほんの少しのそばかすくらいじゃ、大してお顔が損なってない人を知ってますもの。でも、お父さまはそばかすを毛嫌いしてるわ。クレイ夫人のそばかすについてお父さまが指摘するのを、あなたも聞いてるはずよね?」

「どんな顔の欠点でも、感じの良い態度なら、だんだん気にならなくなってくるものよ」とアンは答えた。

「わたしは全然違う考えだわ」エリザベスはぶっきらぼうに答えた。「感じの良い態度は美貌を引き立てるかもしれないけど、不器量な顔を変えることは決してできません。だけど、いずれにせよ、いまの時点で他の誰よりも立場が危うくなるのはこのわたしなのよ。だからわざわざ、あなたからご忠告を受ける必要はないわ」

 アンはこれで終わりにした。話が済んでよかったと思ったし、最善を尽くせたので、それほど完全に絶望的な気分にはならなかった。エリザベスは疑念を抱かれたことに対し腹を立ててはいたけれども、この忠告で少しは用心深くなるだろう。

 馬車用に飼われていた四匹の馬たち4の最後のお勤めは、サー・ウォルターとエリザベスとクレイ夫人をバースに連れて行くことだった。一行はかなりの上機嫌で、馬車に乗り込み出発していった。なかでもサー・ウォルターは、ご主人さまの転居を悲しんで挨拶する借地人や小作人たちに、寛大にもうやうやしく会釈してやるつもりでいた(どうやら皆、最後くらい姿を見せて挨拶したほうがいいと内々に促されたようだったが5)。その同じ頃、アンは一人寂しく静かにケリンチ・ロッジへと歩いていた。そこでは最初の一週間を過ごす予定だった。

 ラッセル夫人はアンよりも元気がなかった。こんなふうに一家が離れ離れになってしまうことが、つらくてたまらなかったのだ。エリオット家の立派な社会的地位は、自分の社会的地位に負けず劣らず愛着があったし、日々の交流は習慣により貴重なものになっていた。人けのなくなってしまった屋敷を見ると胸が痛み、またそれが新しい所有者の手に渡ると思うと、さらに痛切な気持ちになった。だから、変わり果ててしまったケリンチ村のわびしさと物悲しさから逃れるため、そしてクロフト提督夫妻が最初に越してくる際には身を引いておくため、いよいよアンを手放さなければならなくなったあかつきには、自分の家を留守にしようと決めていたのだった。したがって、二人は一緒にここを出発する予定になっていて、ラッセル夫人がバースへ向かう途中で、アンはアパークロス・コテッジで降ろしてもらうことになっていた。

 アパークロスは中くらいの規模の村で、二、三年前までは、昔ながらの英国の雰囲気を完全に残していた。独立自営農民ヨーマンと小作人の家よりも立派な外観のお屋敷は、二つしか存在しなかった。そのうちの一つである地主の邸宅は、高い壁や立派な門や古い木々に囲まれ、どっしりとしていて、古めかしい建物だった。もう一方の牧師館はコンパクトにまとまった造りで、こざっぱりした庭に囲まれ、窓枠にはつたと梨の木の枝が這っていた。けれども、その地主の息子が結婚したことに伴い、地所内の農家をコテッジに改築して、その息子夫婦の住居とした。アパークロス・コテッジと呼ばれるその家は、ベランダやフランス窓など、優美な趣向をいろいろと凝らしてあった。その外観は近隣を通りかかる旅行者が思わず目を留めるほどだったが、それは、四分の一マイルほど離れたところにある、さらに広大な敷地や景観が広がる本家にも引けをとらないくらいだった。

 このアパークロス・コテッジにアンはしばしば滞在していて、ケリンチと同様に、アパークロスでのやり方もよく心得ていた。本家と息子一家の家族は頻繁に顔を合わせていて、お互いの家をしょっちゅう行き来し合っていたから、メアリーが一人だけでいるのを見て、アンはちょっと驚いた。だが一人ぼっちにされたメアリーが具合悪く憂鬱そうにしているのは、さもありなんと思われた。メアリーは、アンより恵まれているにもかかわらず、アンのような分別も冷静沈着さも持ち合わせていなかったのだ。体調が良く、幸せで、人からきちんと気にかけられているときは、メアリーはものすごく上機嫌で元気いっぱいだった。しかし、体に何かしら不調があると、気分がどん底に沈んでしまうのだった。またメアリーは、孤独を紛らわせるような気晴らしが何もなかった。そしてエリオット家のプライドの高さをかなり受け継いでいることもあって、他のあらゆる悩みに加え、すぐに自分はみんなから酷い目にあっている、なおざりにされている、と思い込む傾向が非常に強かった。外見では、メアリーはどちらの姉にも劣っていた。娘盛りの頃でさえ、「まずまずの器量のお嬢さん」という褒め言葉が関の山だった。

 メアリーはこぢんまりとした客間にある、色褪せたソファの上で横たわっていた。かつては優雅だったそのソファも、四度の夏と二人の幼い子どもたちのせいで、だんだんとくたびれてきていた。アンが部屋に現れると、メアリーはこんな調子で迎えた──

「まあ、やっと来てくれたのね! もう会えないのかと思い始めてたところよ。あまりに気分が悪くて、ほとんど口もきけないわ。この午前中いっぱい6、誰にも会ってないのよ!」

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「具合が悪そうで残念だわ」とアンは答えた。「でも木曜日の手紙では、すごく体調が良いって書いてたのに!」

「ええ、せいいっぱい気丈にしていたの。わたし、いつもそうなのよ。でもあの時は、元気には程遠かったわ。いままでの人生で、この午前中ほど体調が悪かったことないと思う。一人で放っておかれてちゃいけないのに。もし突然何か恐ろしい病気に襲われて、使用人を呼ぶベルが鳴らせなくなったら、一体どうするの! ところで、ラッセル夫人は馬車から降りて挨拶しに来てくれなかったのね。夫人がこの夏うちを訪ねて来てくださったのって、三回もないんじゃないかしら」

アンはあたりさわりのない返事をしてから、メアリーの夫について尋ねた。

「ああ! チャールズは狩猟に出かけたわ。もう朝七時から姿を見てないの。わたしはこんなにも具合が悪いって言ってるのに、出かけちゃったのよ。そんなに長くはかからないだろうから、ですって。でももう一時になるのに、まだ帰って来てないわ。ほんとうにわたし、午前中ずーっと誰にも会ってないのよ」

「坊やたちと一緒じゃなかったの?」

「ええ、あの子たちの騒がしさに耐えられる間まではね。ほんとうに手に負えないから、わたしの体調にとっては害のほうが多いの。チャールズ坊やはわたしの言うことを全然聞かないし、ウォルターはますますわんぱくになっていく始末よ」

「まぁ、すぐに良くなるわ」アンは元気づけるように言った。「わたしが来たらいつも良くなるじゃない。本家の人たちはお元気?」

「さあ、わたしからは何とも言えないわ。今日はマスグローヴさん以外には誰一人会ってないもの。マスグローヴさんはうちに立ち寄って窓越しに二、三言話しかけてくれたけど、馬からは降りなかったわ。体調が悪いと伝えたのに、誰もお見舞いに来ないのよ。マスグローヴのお嬢さんたちは都合が悪かったんでしょうけど、わざわざ面倒をかけてまで人に尽くすなんてしない方たちですものね」

「たぶん、昼過ぎまでには来てくれるわよ。まだ早いもの」

「来てほしくなんかないわ。彼女たち、お喋りばっかりしてるし笑い声がうるさいんですもの。ああ! アン、わたし、本当に具合が悪いわ! 木曜日に来てくれたらよかったのに。ひどいのね」

「ねえメアリー、思い出してよ、あなたすごく体調が良いって自分で説明してたじゃない! すごく陽気な調子で、『体調は全然申し分ないから急いで来なくていい』って手紙に書いてたわよ。それに、ラッセル夫人とぎりぎりまで一緒に過ごしたいっていうわたしの希望も、知ってるはずでしょう。それからそれとはまた別に、やることが山ほどあって本当に忙しくて、これ以上早くケリンチを離れることができなかったのよ」

「あら! あなたに一体どんな用事があるっていうの?」

「たくさんよ。すぐには思い出せないほどだわ。でもいくつか言っておくと、お父さまの蔵書や絵画の目録の写しを作成したり、庭師のマッケンジーと何回か庭園に出て、エリザベスの植物のうちどれをラッセル夫人に譲るか話し合ったりしてたの。自分のこまごまとした準備もあったわ。本や楽譜を仕分けたり、トランクをすべて詰め直したりしなければならなかったの。荷馬車の段取りがどうなるのか、その時は分からなかったから。それともう一つ、つらい用事を済ませなければならなかったのよ、メアリー。教区内のほぼすべての家に立ち寄って、お別れの挨拶まわり的なことをしたの。みなさんからそうしてほしいって言われたから。こういったことにものすごく時間がかかったのよ」

「あら! そうなの」──メアリーはそう答え、それから一息ついて、「だけどそういえば、昨日のプール家のディナーについて、一言も尋ねてくれないのね」

「それじゃ、やっぱり行ったの? てっきり、あのディナーに行くのはやめたんだと思って聞かなかったのよ」

「あらまあ、行きましたとも! 昨日はすごく体調が良かったのよ。今朝まではどこも悪いところなんてなかったもの。わたしが行かなかったらおかしいでしょ」

「元気だったのならよかったわ。きっと楽しい集まりだったんでしょうね」

「別に大したことなかったわ。ディナーの内容も顔ぶれも、いつも事前に分かってるんですもの。うちには馬車がないから、厄介ったらありゃしなかったわ。マスグローヴ夫妻が一緒に乗せていってくれたんだけど、もうぎゅうぎゅう詰め! お二人ともかなり体格がいいからすごく場所を取るのよ。マスグローヴさんはいつも前向きに座るの。だからわたしは、ヘンリエッタやルイーザと一緒に、後ろ向きで座らなくちゃいけなかったってわけ。今日の病気はそのせいなんだと思うわ」

 アンは辛抱強く耳を傾け、自分でもやや無理をして明るく励ましたおかげで、メアリーはだいぶ気分が回復した。そしてまもなく背筋をピンと伸ばしてソファに座れるようになり、「ディナーの時間までにはソファを離れられそうだわ」と言い始めた。そしてつい今さっき言ったことも忘れて、部屋の向こう側まですたすた歩いていき、花瓶に生けてあった花束を整えた。それから冷肉を食べ、すこし散歩に出かけましょうと言えるほどにまでなった。

「どこに行きましょうか?」支度ができるとメアリーは言った。「本家には行きたくないでしょ? 向こうが先にこちらへ挨拶に来なくちゃね?」

「その点については何の反対もしませんけど」とアンは答えた。「マスグローヴさん夫妻ほど親しい人たちに対して、そんなに堅苦しい礼儀が必要だなんて思ってもみなかったわ」

「あら! でもあの人たちのほうがすぐにあなたを訪問してくるべきよ。わたしのお姉さまであるあなたに対して、それなりの敬意を払って当然なんだから。まあだけど、こちらから出かけて行ってちょっと過ごしてみるのもいいかもしれないわね。それが済めば、あとは心おきなく散歩を楽しめるし」

 アンはいつも、このようなお付き合いの仕方は賢明ではないと感じていた。でも、もう止めさせようとするのは諦めていた。どちらの家族も、お互いに絶えず不快にさせ合っているのにもかかわらず、このお付き合いなしではやっていけないからだ。そうして二人は本家のほうを訪れて、古風な四角い客間でまるまる半時間ほど座って過ごした。その客間はピカピカに磨き上げられた床に小さな絨毯が敷いてある部屋だったが、マスグローヴ姉妹たちの手により、グランドピアノやハープ、花台やミニテーブルがあっちこっちに並べられ、ほどよく雑多な雰囲気が醸し出されているのだった7。ああ! もし壁に掛けられている肖像画の主たちがこの光景を見たら、どう思うだろう! もし茶色いベルベットの衣服をまとった紳士たちや、青いサテンドレスの淑女たちが、秩序も整然さもすっかりひっくり返されたようなこの部屋のありさまに気付いたとしたら、どれほどびっくりしたことだろう! 肖像画の中の人たちも、驚きのあまり目を丸くしているかのようだった。

 時代の流れを受けて、お屋敷と同じく、マスグローヴ家の人たちも変わりつつあった。いや、良くなってきていると言うべきかもしれない。父親と母親は昔ながらの英国風の人たちだったが、若者たちは新しい気風に馴染んでいた。マスグローヴ夫妻はすこぶる善良で、フレンドリーで温かいもてなしをする人たちだったけれども、あまり教育は受けておらず、まったく上品ではなかった。一方、子どもたちは今時の考え方と立ち居振舞いを身につけていた。かつてはもっと子沢山だったのだが、チャールズを除くと、成長したのはヘンリエッタとルイーザの二人だけだった。二人は十九歳と二十歳の若いお嬢さんで、エクセターの女子寄宿学校に通い、お決まりの教養を一通り学んで帰ってきていた。そしていまや、他の何千もの若いお嬢さんたちのように、流行を追い、幸せで陽気な日々を送っていた。服装は非の打ちどころがなく、顔立ちもなかなか可愛らしくて、たいへん朗らかな性格だったし、立ち居振る舞いも堂々としていて感じが良かった。二人は家では中心的存在で、家の外でも人気者だった。アンはつねづね、この二人は、自分の知り合いの中でも最も幸せな人たちだと思い巡らせていた。しかしそれでもやはり、ある種の心安やかな優越感のおかげで、彼女たちと入れ替わりたいなどとは決して思わなかった。自分の洗練された教養ある知性を手放してまで、彼女たちの楽しみを手に入れたいとは思わなかった。ただ唯一、マスグローヴ姉妹のことがうらやましいと思えたのは、見た限りでは姉妹同士が完璧に理解し合って仲が良く、お互いが穏やかな愛情の絆で結ばれているところだった。それはアンが、姉エリザベスや妹メアリーのどちらに対しても、ほとんど経験したことのないものだった。

 アンとメアリーはマスグローヴ家で大歓迎された。本家の人々のほうの振る舞いには、これといって不適当な所はないように思えた。アンもよく分かっていたとおり、たいていの場合、本家の人たちに非はないのである。楽しくおしゃべりをして、三十分ほどが過ぎていった。そろそろお開きというところで、「あなたたちもぜひご一緒にいかが?」というメアリーのたっての誘いにより、マスグローヴ姉妹が散歩の一行に加わったが、アンはそれを少しも意外だとは思わなかった。

  1. 事務員(clerk)は、事務弁護士(attorney)を補助して書類作成などを行う。たいてい数年間そこで下積みをして商売について学び、その後事務弁護士になる者が多い。多くの事務弁護士はふつう事務員一人のみを雇うが、シェパード氏は二人以上の事務員を雇っているので、通常よりは繁盛しているといえる。(参考:Jane Austen, David M. Shapard, The Annotated Mansfield Park, Anchor, 2017. )
  2. 当時の賃貸契約は、一年を四期に分けて支払いが行われた(四季支払日)。すなわち、聖母マリア福音祭(Lady Day, 3/25)、洗礼者ヨハネの祭日(Midsummer Day, 6/24)、大天使ミカエルの祝日(Michaelmas, 9/25)、キリスト降誕祭(Christmas, 12/25)。そのため、屋敷を貸借する際はこれらの日を基準とするのが一般的だった。(参考:Jane Austen, David M. Shapard,The Annotated Persuasion, Anchor, 2017. )
  3. 万が一クレイ夫人がサー・ウォルターの妻となれば、これまで十三年間ケリンチ・ホールの女主人を務めてきたエリザベスの立場に取って代わることとなり(一つの屋敷に女主人は一人しか存在できない)、未婚のエリザベスは肩身の狭い思いをすることになるため。
  4. バースでは簡単に馬車を雇って移動することができるので、自家用の馬車や馬(最低でも年500~700ポンド以上の維持費や諸費用がかかる)を持つ必要がない。そのため、家計の節約になるのである。(参考:Jane Austen, David M. Shapard, The Annotated Persuasion, Anchor, 2017. )
  5. 小作人や借地人は、エリオット家の所有する土地に住む住人である。当時の価値観では、地主と借地人は家父長制パターナリズム的な関係性が理想的とされていた。つまり、地主は借地人とその家族に対し温情をもって庇護監督したり慈善を施したりする一方、借地人はその見返りとして敬意と感謝を示し、良質な労働を提供するという関係である(例えば、地主の屋敷で働く使用人のほとんどが、その地所に暮らす借地人一家である。それにより地域に雇用を生み出しているのである)。だからこそ小作人や借地人は、地主が立ち去る際に敬意を表するために集まり、それに対し地主はうやうやしくお辞儀をして、借地人たちもそれを嘆き悲しむ、というのが普通であった。しかしサー・ウォルターのの場合、おそらく土地管理人から促されなければ、誰も集まらなかったのであろう。自惚れの強いサー・ウォルターは、自分は土地の人々から愛されていると信じていただろうし、何か表敬の印を期待していたはずなので、誰も現れなければ屈辱と怒りを感じていただろう。サー・ウォルターが理想的な地主から程遠い人物であったことは、容易に想像できる。(参考:Jane Austen, David M. Shapard, The Annotated Persuasion, Anchor, 2017. )
  6. 当時の午前中(morning)とは午後3,4時ごろまでを指すが、便宜上「午前中」と訳す。何かにつけて大げさに誇張し、言葉と行動が矛盾して一貫性のないメアリーの性格がよく表れた一文。
  7. 昔は、家具は通常壁際に配置され、必要に応じて引き出されて使われていた。家具を部屋のあちこちに置くようになったのは、当時では比較的新しい傾向。それに伴い、散らばった椅子やソファの横に様々な小テーブルが置かれるようになり、その上に花を飾ることも一般的になった。18世紀半ば頃から、部屋の装飾として花や植物を飾ることが人気になったという。(参考:Jane Austen, David M. Shapard, The Annotated Persuasion, Anchor, 2017. )
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